田中圭一『百姓の江戸時代』

百姓の江戸時代 (ちくま新書)

百姓の江戸時代 (ちくま新書)

 うーん、内容としては妥当だと思うが、なんというか攻撃的な筆に引く。
 教科書的な江戸時代の理解、「封建制」としての江戸時代の理解が完全に間違っているという主張。村の組織化、百姓の社会における主導権、「自給自足の村」に対する批判、などなどうなずくところが多い。江戸時代を「封建社会」と位置付けなければならなかったマルクス主義の史学、あるいはそれに類似したものが完全に受け入れられないのは確か。
 ただ、なんと言うか議論の仕方に偏りを感じるというか…
 本書では村の形成が江戸時代、早くとも戦国大名の形成期からとなっている。本書の題材は佐渡を中心とする東国である。しかし、西国方面ではもっと早い時期から「惣村」が形成されている。そのあたりの地域性について、少々無防備にすぎるのではないか。特に佐渡は金山という特殊な土地柄であるだけに。
 また、権力に対する見解も皮相であると感じる。幕藩体制は、村落共同体の自治を前提に、共同体間の紛争を調停する「公」的存在として機能した。そのあたりの体制の機能への理解を欠いた記述ではないかと感じる。
 あるいは、

 こういう世の中の動きをすばやく利用した人たち、それが十六世紀の主役、戦国大名と呼ばれる人たちであった。戦国大名の中に商業とかかわったという伝承をもつ人たちがいるのは、そのような状況をかたるのであろう。p.143

 米の需要が高まり、越後高田藩では寛永期以降、資金を持った米商人宮嶋作右衛門や藩の蝋商人森三右衛門が大規模な水田開発に手をつけるが、そうした機運はたちまち諸藩の村々に及んでいった。それは大きな時代の変化がもたらした現象であって、藩主やその家来たちの思考の範囲を越えるものであった。p.144

このあたりも気になる。事実上、同じ存在に、180度反対の評価を、しかも1ページしか離れていない箇所でするのはどうだろうか。
 このあたりの微妙感を除けば、江戸時代の百姓のパワーが史料をもとに生き生きと表現されていて非常におもしろい。


 村八分が始まったのは実は最近? では、交通の活性化に伴う共同体の崩壊に対する結束の強化策という理解が指摘されている。本書では、経済的な要因。山林や海の天然資源の維持のための規制の必要が、村八分を生んだと指摘。近世スタイルの「ムラ」が比較的新しい存在であると考えると、こちらの方が説得的か…
 「惣村」出現以前の社会というのが、いまいち理解しがたいのだけれど。