熊本城と市内の石碑

谷元臣氏関連

 二の丸公園の周辺に設置されているスポット紹介の碑。ほとんど名前の知られていない、目立たない場所に設置されている。裏面に、共通して「昭和五十三年九月 寄贈谷元臣」と彫られている。寄贈者が一括して設置したのだろう。ちなみに、ちょろっと調べてみた範囲では、この谷元臣氏は谷干城の子孫だとかいう情報も。現在、確認したのは以下の3基のみだが、探せば他にもあるかも。

  • 松井山城預櫓跡

藤崎台方面への降り口の南側。県立美術館の反対側。
特別史跡熊本城跡:松井山城預櫓跡」
(裏面)「昭和五十三年九月 寄贈谷元臣」



同櫓跡からの眺望(西側)



  • 二の丸門跡

三の丸から二の丸公園の北側に上がる階段の下にある。(所在三の丸)
特別史跡熊本城跡:二の丸門跡」



  • 百間石垣

特別史跡熊本城跡:百間石垣」
二の丸の北側を限る石垣。こちらも石垣の下の三の丸に。

三の丸、新堀橋たもとの石碑群

新堀橋のたもとにある石碑。北から入ると良く目立つ。
特別史跡熊本城」
(裏面)「昭和六十三年六月二十七日
     清正公肥後入國四百年記念
      財団法人 熊本城顕彰会
           会長 田尻靖幹」


古京町縣道起點」
(裏面)「大正十三年三月建設 熊本県


  • 陸軍所轄地

見ての通り。かつて熊本城が軍用地だったことを示す遺産。他に残っているものは少ないだろう。


国崎定洞生家

壷川一丁目のバス通り沿いに所在。
戦前の共産主義者にして、スターリンの粛清の犠牲者。『人間 国崎定洞』まえがき 国崎定洞日本人粛清犠牲者リストを参照のこと。
2007年建立だから、極最近のもの。
「悲運の革命家国崎定洞ここに生まれる」
「国崎定洞(くにさきていどう)は、一八九四(明治二七)年十月五日、医家の子としてここ
 (寺原町八十番地)に生まれた。一九二四年社会衛生学(社会が人の健康に及ぼす影響を研究する学問)
 の開拓者として東京帝大の助教授となるが、ニ七年留学先のベルリンでドイツ共産党に入党して
 革命運動に入り、コミンテルンの「三ニテーゼ」を川上肇に託すなど、日本の革命運動にも貢献
 した。その後ナチスの弾圧を避け亡命したソ連で、スパイの嫌疑を受け、一九三七年十二月十日
 銃殺された(五九年十月名誉回復)。           二〇〇七年一月」
「国崎定洞顕彰碑建立実行委員会
 猪飼隆明 加藤修 上妻四郎 井上栄二 樺島啓吉 下城正臣 板井優 国宗直 林敦 梶原定義 久保山啓介 宮崎静夫
 そのほか碑建立に賛同協力された人八〇余名」




手取小学校址

通町筋のテトリア・鶴屋東館前。タクシー会社の車庫出入り口横。街中の歩道に何食わぬ顔して立ってるのに気づいてびっくりした。よく通る道なのに、つい最近まで気づかなかった。
ちなみに、同小は昭和五年に山崎小と合併したそうな。


水神之碑

黒髪一丁目、済々高前バス停から少し入ったところ。いつ建てられたかどうかなどの情報は碑に刻まれていなかった。
住宅地の公園の横に建ってたから、何ぞこれと思ったが、まわりを良く見るとちょっとした谷で公園の下には暗渠もありそうな場所。もとは湧水もあったのだろう。あまり住宅地にが適していない場所。こんなところ宅地化したらイカンよ、まったく。


夏目漱石句碑

京陵中学校前。「すみれ程の小さき人に生まれたし」と刻んであると裏にある。