明治の宗教政策――安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈」

http://inthewall.blogtribe.org/entry-0d1d4eac3ed5143f3304bdacaa33e166.html
 おもしろそうなのでメモ。
 私が「国家神道」が嫌いなのは、このようなところにあるんだよな。土地の神社を歩いた時に感じるあの雰囲気と、全く乖離した感じ。護国神社には、そこが「聖地」であるという空気がない。あと、地元を歩いて、かつての村やそこにある神社についての知識を深めていくと、祭神の創作や合祀による、地域での信仰の破壊というものに直面してしまうし。近代に入ってから捏造した宗教に魅力を感じないといってもいい。在地から立ち上がるものではない「宗教」は空しい。
 靖国神社には行ったことがないが、何箇所かの護国神社や京都の平安神宮などの近代に入ってからの神社には霊性を感じられない。そこから類推するに、国家神道の中心に神性はないのではないか。それでいて、天皇へとつながる求心力が存在する。そのあたりに、むしろ禍々しささえ感じてしまう。
 そんなこんなで、私は靖国イデオロギーを核とする右翼の言論・運動をものすごく嫌っている。そして、根っこのない靖国的な神道を「靖国カルト」を心の中で、定義している。
 この記事では何箇所か引用してあるけど、同感としか言いようがない。


これも関係あるかな。「腐れナショナリズムの憂鬱」

その「美しい表向きの理念」と「レイシズム的蔑視」の組み合わせ、これが我が国のナショナリズムの基本的構造であり、それがいまなおその枠組みを一歩も出ることなく、再生産されているのではないか。

確かにそのような側面があるのかも。表向きの理念にしても、基本的には日本社会に「同化」させる、あるいは「教化」するという方向性だから、相手のことを尊重していないことには変りないし。