村上重良『国家神道』

国家神道 (岩波新書)

国家神道 (岩波新書)

 ずいぶん昔の岩波新書。1970年代の出版だが、一周回ってまた右翼的な運動が盛んになってくると、国家神道の復活への危惧というのは他人事に感じないな。
 全体としては前史としての「神道史」がかなりの部分を占めるのだが、そもそも神信仰や儀礼の歴史を一括して「神道史」としてまとめてしまっていいのかなと感じた。そもそも、古代国家の祭祀と近世の神仏習合が進んだ状況と、復古神道から国家神道というのは、それこそ別の宗教と言っていいくらいに性格が違うわけで。そのあたりの概念のあいまいさというのが、「神道」というものの強みなんだろうし、逆に近代の国家神道の空疎さというのにも繋がっているのだろうけど。
 復古神道そして、国家神道が、日本の宗教的伝統から見ると、相当異質であること。民衆を教化し、国民化するために、相当な無理をしていることが、指摘されている。最近、私自身、神道や神社に対して不信感の塊になっている。本当にこの神社は現在表示されているような祭神なのかとか、柏手などの所作はいつ誰がどんな経緯で決めたのかとか。
 明治初期の過激な廃仏毀釈神道中心主義の試みが神祇官の廃止で挫折する。その後、明治憲法で「疑似的政教分離」が行われ、その隠れみのの中で国教としての国家神道が確立する。その聖典教育勅語であると指摘する。
 神仏習合は良く語られているが、復古神道の背景に儒教との習合があるというのは興味深い。
 うーん、読むのにずいぶん時間がかかってしまった。そもそも読みやすい本ではないし、国家神道がらみの話は嫌な気分になるから、すいすいとは読めないんだよな。


 以下、メモ:

 ふつう、神道というとき、まず最初に浮かぶイメージは神社であろう。神社は、歴史上の事実として、終始、神道の主体であったし、こんにちでも、神社神道神道の中心であることはいうまでもない。しかし、神道という概念は、神社神道の周囲に、ひろい周延をもっている。その広がりは、漠然としてるだけでなく、複雑にからみあっていて、神道を客観的にとらえることを困難にしている。とくに近代以降は、およそ日本的な思想と文化のすべてを、神道と結びつけて説くというような、際限のない神道の拡大解釈がつづけられてきたため、神道とは何か、という設問への答は、学問的にはもとより、社会通念としても、きわめてあいまいなものになっている。p.14

 国家神道は、多元的に発達し、併存してきた日本の諸宗教のうえに、実体のない近代天皇制国家そのもの精神として君臨した。そのため、この中身のない国教は、教義をもたず、宗教ではない国家祭祀というたてまえで、政治的にきわめて有効な機能を獲得した。その理念が、民主主義、社会主義等の実態のある政治思想や観念ではなく、神話に立つ理論以前の精神、「惟神の道」であったことは、国家神道のもつ矛盾である半面、かけがえのない強みでもあった。国家権力は、その時々の政治的必要に応じて、惟神の道に、フリー・ハンドで恣意的な内容をもりこむことができたからできたからである。国家神道は、日本そのものの体現者としての事故をつねに正当化する必要があったから、歴史を改変し、日本の伝統を破壊しつつ、作為的に復古を唱え、形のうえでの復古を実現しなければならなかった。そのため、国家神道の教義と儀礼は、国民精神と称しながら、十九世紀なかばから二十世紀なかばにかけての日本国民の生活意識と結びつきようのない、人為的で空疎なものに落ち着かざるをえなかったし、国民から完全に遊離した存在として終始するほかなかった。しかも国家神道のたてまえは、歴史的に多様な展開をとげ、宗教としての機能をある程度そなえていた神社の現実と、明らかに矛盾するものであったから、神社は宗教か否かの紛争が、ながく尾をひくことになった。p.224-5

 神道概念の曖昧性。曖昧だからこそ、便利に使えたという側面も。

 復古神道は、仏教、儒教陰陽道等の発達した外来の宗教と習合することで自己展開をとげてきた神道の歴史のうえでは、特異な学派神道であった。そのファナティックな復古の絶対化と排他性は、あきらかに神道の伝統とは異質であった。このような、いわば神道の異端派の思想が、倒幕の政争の過程で、政治上の指導的イデオロギーとなりえたのは、その宗教上の復古主義尊王主義が、天皇の古代的宗教的権威の復活による日本の中央集権的再統一という王政復古の政治目的を、イデオロギー的に基礎づける政治的有効性をそなえていたからである。p.67

 復古神道の排他性。実際のところ、復古神道から国家神道にかけての、ファナティックさ。他宗教の弾圧を無視して、日本は伝統的に宗教的寛容な社会でとか言うのは、それこそ歴史に目をつぶる行為だよなあ。

 こうして、神社は、官社(官幣社国幣社)、府県社、郷社、村社および無格社と、五段階に序列化され、中央集権的に再編成された。地縁的な小神社では、もともと特定の祭神の神名をさだめていない神社が多かったが、この格づけの過程で、適宜、神明社としたり、復古神道系の祭神を官僚に選んでもらったりした。多元的な源流をもつ全国の神社を、津々浦々にいたるまで一元的に統制支配するこの処置は、神道の歴史をつうじて、前例のない徹底した神社制度であった。p.95-6

 日本の伝統の破壊行為だよなあ。本当のところ、江戸時代にはどんなものだったのやら、今となっては分からないという状況になっているという。

 京都では、旧習一洗に熱心な大参事植村正直が行政の実権を握り、廃仏毀釈を指導した。神仏習合の神社にたいしては、祇園社は八坂神社、石清水八幡宮は男山神社、愛宕山大権現は愛宕神社等とそれぞれ改称させ、仏像仏具類を破却したり払い下げた。また、病気なおしのために御水をあたえるなどの呪術行為を理由に、寺院の施設を没収して廃寺とした事例もあった。路傍の地蔵等の石像もこわし、一ヵ所に集めて石材として利用した。農村部では、小学校の新築に、付近の石地蔵を集めて土台石や便所の踏み台に用いた。児童が罰をおそれて便所を使用しないので、教師がみずから石地蔵の上で用を足してみせ、仏罰が当たらないことを実地教育したという。p.100

 京都の廃仏毀釈。うわー。気持ち悪いとしか。そう言えば、京都市内でも、あんまり江戸時代に遡るお地蔵さんは見かけなかったような気が。当時、あまり気をつけていなかったから、正確ではないが。

 国家神道の教義は、国体の教義として、帝国憲法教育勅語によって思想的に確立した。教育勅語は、天皇崇拝と祖先崇拝を結合し、イエ段階の孝を、ムラ段階から、さらにそれを拡大したクニ段階の忠に一体化した。親への孝と祖先の崇拝は、神をうやまい天皇を崇拝することと内面的に連続し、本来的にひとつの観念であるとされた。この構造は、歴史的に日本人の宗教意識の中心を占め、おもに仏教によって培われてきた祖霊崇拝の観念を吸収して、国体の教義の重要な構成要素としたものであった。こうして「敬神崇祖」が国家神道の精神として強調されることになり、その具体化が、教育勅語の封建的徳目であるとされた。国体の教義と祖先崇拝の結合は、日清戦後の一八九八年(明治三十一)の民法施行によって法的に完璧なものとなった。教育勅語発布に先き立って、一部公布された民法は、ヨーロッパに依った近代的な法体系をそなえていたが、保守派、国粋派は「民法出でて忠孝亡ぶ」との扇動的なスローガンによる反対運動をおこして、その施行を阻み、ついに家族制度と祖先崇拝を主軸とする天皇制的な民法の制定を実現させたのである。p.140

 宗教の教典としての教育勅語国家神道が宗教ではないと主張する「疑似的政教分離」を利用して、これは徳を説いたものだから復活させようと主張する連中がいるが、惑わされてはならないと。

 国体の教義の中心には、世界における「神国日本」の絶対の優越性の主張と、全世界を指導する聖なる使命意識があり、天皇の名による戦争は、無条件に聖戦として美化された。全国各地の大小の神社では、国家段階での戦勝祈願とともに、氏子である出征将兵の武運長久祈願が行われ、神社は戦争をつうじて、氏子崇敬者としての国民との結びつきを強化した。神社は、明治後期には急速に軍事的性格を強め、戦勝、武運長久祈願という新たな宗教的機能を獲得した。本格的な対外戦争による戦死者の急増は、天皇の名による戦争の戦没者を「英霊」として合祀する靖国神社の比重を大きくした。招魂社にはじまる靖国神社は、陸、海軍省所管の宗教施設で、一八七九年(明治一二)別格官幣社に列格されて改称し、国家神道の系列に位置づけられた特殊な神社であったが、日本の対外侵略の拡大とともに、国家神道の軍事的性格を代表する神社として発展し、国体の教義の重要な支柱になった。p.144

 逆に言うと、帝国日本の拡大に伴って、戦没者の慰霊顕彰の機能が肥大化していったと理解することもできそうだな。

 そのため、国家神道の祭祀は、本質において政治的であり、すべての祭祀が、最高の儀礼執行者であり生き神である天皇の祭祀を基準として組み立てられていた。天皇の祭祀、すなわち宮中祭祀皇室神道の祭祀)の主要な内容と形式は、日露戦争後の一九〇八年(明治四一)九月の皇室祭祀令によって確定した。神社の祭祀の形式は、これにつづいて大正期から昭和初期にかけて、宮中祭祀を基準として整えられ制度化された。p.146

 これらのおびただしい祭典のうち、明治維新前から行われていた祭典は、大祭では神嘗祭新嘗祭およびその鎮魂祭のみであり、小祭では歳旦、祈年、賢所御神楽の三祭にすぎな。そのほか四方拝(一月一日)、節折(六月、十二月の晦日)、大祓(同)の三儀式が、古代以来の伝統をもつ儀礼であった。
 国家神道の祭祀の基準として編成された宮中祭祀は、新たにつくり出された国家宗教の儀礼にふさわしく、新登場の祭祀が大半を占めていた。新しくつくられた宮中祭祀の祭典は、天皇の祖先の祭りと、記紀神話に依拠する政治色のつよい祭りであり、天皇崇拝を積極的におし出すために、明治中期までにつぎつぎと制定されたものである。とくに天皇の祖先を祀る多数の祭典が新設されたのは、国体の教義において占める祖先崇拝の重要な役割に対応して、天皇がみずから祖先崇拝の範を垂れるという趣旨によるものであった。p.150-1

 現在の神道儀礼の新しさ。幕末どころか、明治に創造されたものが大半という。

 天皇制化の創建神社として最大の規模をもつ明治神宮をはじめ、天皇、皇族を祭神とする神社は、国家神道の教義を直接表現した宗教施設であった。もともと日本には、天皇を神として神社に祀る伝統はなかったが、国民の間に天皇崇拝を定着させるために、天皇、皇族を祭神とする神社という新しい発想が具体化され、この種の神社が系統的に創建されることになった。この場合、天皇は多く官幣大社、皇族は中小の官幣社に祀られたが、とくに天皇を祭神とする神社の主要なものは神宮、皇族のそれは宮と称した。p.189-190

 未だに、明治神宮が初詣の参詣者数のトップを争ったりする状況だから、国家神道の影響力って大きいよなあ。新しく作ったものにもかかわらず。