染田秀藤『インカ帝国の虚像と実像』

 アンデス文明無文字社会であり、スペイン人の征服以前の状況を知るには、スペイン人やスペイン語を学んだ先住民による記録「クロニカ」が基本史料とされている。本書は、その「クロニカ」にどのようなバイアスがかかっているかを検証している。ただ、読んでいて思ったのだが、構成がまずいのではなかろうか。第四章を先頭に出して、ある程度結論や議論の枠組みを先に提示しておいた方が、話全体が分かりやすかったではなかろうか。それぞれのクロニカの背景を検証していくというのが、すいすい読める内容ではないのは確かなのだが、それにしてもなかなか先に進まなかった。


 第一章は「インカ帝国」の発見まで。最初に南に大きな国があるという情報を掴んでから、ピサロの第一次、第二次遠征あたりまで。あまり検証されずに文学的な脚色が「歴史的事実」となっていく状況や遠征に従事した人々が自分たちの苦労を正当化するために、「偉大な国」でなければならなかった事情を明らかにする。
 第二章は1530年代。征服を正当化する言説と黄金への欲望を語るクロニカ。多くのクロニスタが、インカ道やその宿駅、そこに貯蔵された物資、さらに各地に設置された太陽神の神殿について興味を持って言及している。さまざまなクロニカが「インカ=強大な王が支配する広域国家」というイメージを持っていたと指摘する。
 第三章は1540-50年代のクロニカを素材に「インカ帝国」像の形成を論じている。インカの貴族階級を中心とした情報提供者との合作であること。そのため、インカの内部対立が反映され、語られる歴史にそれぞれ齟齬があること。王朝がヨーロッパの常識を反映して単一王朝であり、嫡子相続であったと描かれること。スペイン王室による先住民宗教に関する記述の禁止やペルーの支配を正当化する「インカ暴君説」といった政治的動きによって、記録が書き換えられている状況などが明らかにされる。
 第四章は暴かれる「インカ帝国」の虚像ということで、考古資料や伝承の研究から、「インカ帝国」の実態を整理している。王族間の対立がインカに関する言説を混乱させた状況。インカ王が単純な世襲制ではないこと。そもそも王位継承のルールがなく、王位をめぐる対立が頻発したこと。また、インカ王は、戦争や造営活動において部将や有力者の支持を得るために気前よく贈与をばらまく必要があったこと。王が交替する度に、歴史が書き換えられてきた状況を指摘する。このあたりの王位継承のルールの欠如というのは、石澤良昭『アンコール・王たちの物語』asin:4140910348を思い起こさせるな。東南アジアや遊牧民の王権と似たようなスタイルと感じる。あとは、口頭伝承の揺らぎやすさとか。


 以下、メモ:

 つまり、私たちは、自分たちの文化ははるか悠久の歴史をたどりながら現在に至っているのを当然のこととして受けとめているのに、異文化、とりわけ、ヨーロッパ列強諸国の植民地となった土地にもともと住んでいた人々、すなわち、俗に「先住民」と呼称される人たちが営々と築きあげた文化に関しては、なぜか時計の針を止めてしまう傾向にある。その原因のひとつは、被征服者・被支配者とされた先住民の文化に関する情報が、彼らを支配したヨーロッパの列強諸国を経由してそのまま私たちのもとへ届けられたことにあるといえるだろう。換言すれば、それは、先住民の歴史がヨーロッパ人の到来、つまり、侵略によって断ちきられ、それ以後は、その歴史がヨーロッパ人、すなわち支配者によって語りつがれてきたきたことを意味している。p.6

 疫病などによって人口が激減して、文化が変容しているから、16世紀で終わったようなイメージがどうしてもできてしまうな。生き残った人々が、文化を伝承してきたにもかかわらず。そのあたりは自戒すべき問題。

 すなわち、クロニカはその大部分が、書記活動こそが文化を規定する特徴であるとしてこれを最大限に評価し、人類の文化活動の頂点に位置づける。スペイン人をはじめとするヨーロッパ人が、「目撃者」として出来事史を書きつづった文書であり、同時に、先住民の文化に関して、インディオたちから聴取・収集したさまざまな情報(インディオの言説)を取捨選択して編纂(翻訳)した記録文書でもある。しかし、クロニカの読者にとっては、クロニスタが先住民の言葉をじゅうぶんに理解し、彼らの伝える情報を正確に把握したうえで記録に収めたのかどうかとか、インディオたちの情報にどれほどの信憑性が認められるのかといった問題は、ほとんど関心外のことだった。p.27

 書記活動の重視ってのは、「先史時代」という用語にも現れているな。

 このように、クロニカによって、記述の対象となっている地方や人々、もしくは、出来事が同一であるにもかかわらず、相反する情報が記されている場合が少なくない。その場合、情報の信憑性に関しては、その後に著されたクロニカなどの記述や、人類学や考古学の研究成果にもとづいて判断することができる。しかし、クロニスタがあきらかに事実に反する記述をおこなっている場合、それをクロニスタの無知あるいは誤解にもとづくものと、いちがいに決めつけるのは早計である。往々にして、その記述の背後にクロニスタの他者認識や歴史観を読みとることができるからである。先記の人身犠牲に関していえば、現在、「インカ帝国」では、ほとんど人身犠牲はおこなわれておらず、おこなわれても、幼児の生け贄がほとんどだったことが判明している。この点では、明らかに、へレスは事実を捏造したことになる。こkに、スペイン人が押しすすめる征服戦争を聖戦として正当化しようとする、へレスの歴史認識の問題を指摘することができる。p.86

 記述の背後にあるイデオロギーや政治的立場、歴史認識の問題。記述資料の厄介な所だな。

 以上の点を考慮すれば、キプカマヨクによるビラコチャ・インカ顕彰の背後には、スペイン人への阿諛追従というより、パチャクティ・インカに対する激しい敵愾心が潜んでいると考えた方が妥当だろう。キプカマヨクがビラコチャ・インカにつながる人たちだったかどうかは定かではないが、少なくとも、文書の冒頭に記載された情報によれば、彼らには、クスコを占領したキト派インカ(チャルクチマ、ルミニャウイなど)の武将による極悪非道な仕打ちを恐れてずっと身を隠していたという過去があり、したがって、彼らがクスコ派インカとつながっていたことには疑問の余地がない、一方、そのクスコ派インカの鏖殺を命じたがキト派インカの領袖アタワルパで、彼はパチャクティの王族(イニャカ)の出身であると伝えられているのである。このように見れば、先記の一覧表でも分かるように、『キプカマヨクの報告書』に、正統なインカ王朝はワスカルで途絶えたとくりかえし記されている理由も説明がつく。p.138

 インカ上層部の対立。

 ラス・カサスは晩年に『ペルー財宝論』De Thesauris in Peruという浩瀚な論集を著したが、その中にも、「ペルーの王国の国王、つまり、皇帝はインカという呼称を名乗っていたが、それはエジプトの国王が当初、ファラオ、ついで、トロメウスと名乗るのを習わしにしたのと同じである」と記し、さらに言葉をつづけて、「そのインカ王と彼の後継者は自分たち以外に上位者を認めない、全土を治める至高の君主、支配者であり、世界の他の自由な国王と同じように、公正かつ完全な裁判権、あらゆる権能と管轄権を有する」と書いている。つまり、ラス・カサスはアンデス情報を巧みに利用して――事実の歪曲もしくは捏造ではない――、のちに「ユートピア的」と見なされるほどの「インカ帝国」像を描いてみせたが、その本当の目的は「最も真実に近いと思われる」(第250章)インディオの過去――この場合「インカ帝国」――を描くことによって、そのような過去を受けついでいまを生きるインディオの人間としての尊厳と名誉を回復することにあった。p.197

 メモ。ラス・カサスの意図。

王が代わるたびに歴史が塗りかえられる
 また、本書で取りあげたスペイン人のクロニカに、タルコ・ワマンやインカ・ウルコが「インカ王」として記載されていないことや、北部海岸地方で広大な領域を勢力下に収め、素晴らしい文化を育んだ、チャンチャンを都とするチムー王国(1470年代にインカの軍門に下る)に関する記録がほとんど認められないのは、インカ支配以前のアンデスでは、「各地で大勢の支配者がひたすら戦いに明け暮れ、混沌とした状態がつづいた」という情報がスペイン人のクロニカに共通して記されている事実とともに、インカ支配に先立ってアンデスに開花した文化(ワリ、ティグワナコなど)の存在を否定し、インカ支配をアンデスに秩序と文明をもたらしたものとして正当化するためにパチャクティの時代に公式な「インカ王朝史」が編纂され、語りつがれたことを意味している。つまりこれは、アメリカの人類学者マイケル・A・マルパスが指摘するように、「支配者」の視点から語られたインカ史であり、同じことは、シエサ・デ・レオンと同じように、十六世紀後半にインカ王朝史を取りあげたサルミエント・デ・ガンボアやホデ・デ・アコスタのクロニカにもあてはまる。その意味で、ペルーの歴史家ルイス・ミリョネスの以下のような仮説は示唆に富んでいる。かれは、アタワルパがスペイン人に殺害されず、クスコに凱旋した場合を仮定して、こう記している。


 おそらく数年も経過すれば、アタワルパは……自分が権力を掌握するにいたった歴史を塗りかえることに腐心しただろう。そして、アマウタ(「賢人」)やハラヴィク(「詩人」)は彼らの仕える君主(アタワルパ)を顕彰する話や詩を作りあげただろうし、その物語や詩では、マスカパイチャがアタワルパの手に渡る過程で起きた血なまぐさい出来事や、その戦いに敗れ去った人たちなどのことは抹殺されてしまっただろう。そうなれば、二度とワスカルやニナン・クユチのことを口にする人はいなくなっただろうし、場合によっては、インカ王の系譜から、つまり、カパック・クナ(インカ王のこと)から、トゥパク・インカ・ユパンキ(ワスカルにつながるパナカの創始者)が葬り去られてしまうことすらありうるのである。p.230-1

 まあ、この手の記録の書き換えはどこでもやっていることではあるわな。ただ、口頭伝承ではそれが徹底できてしまうと。文字資料だと、どこかに尻尾が残ったりするものだが。