エイミー・B・グリーンフィールド『完璧な赤:「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語』

完璧な赤―「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語

完璧な赤―「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語

 天然赤色染料の頂点を極めるコチニールをめぐる愛と欲望と冒険の物語、みたいな。染料に関する研究って、スパイスやプランテーション作物と比べると、研究が少ないから、こうやってまとめられるとなかなか興味深い。海賊の標的になっていたことや、先住民社会の維持に役割を果たしていたあたり。
 天然の染料では、鮮やかな赤色で布を染めるのは難しい。そのため、赤色の服は、紫と並んで威信の象徴となっていた。ヨーロッパでは、アルメニアポーランドカイガラムシが、鮮やかな赤を染め上げる染料として利用されてきたが、一年に一回、地中にいるものをとらえる必要があって、供給量は少なかった。一方、アメリカ大陸、メキシコの高原地方では、同じくカイガラムシの一種であるコチニールの「家畜化」が進み、鮮やかな赤色とその染料が広く流通していた。ヨーロッパ人のアメリカ大陸への進出は、コチニール染料をヨーロッパにもたらした。この結果、コチニールは利益の上がる貿易品となり、南米との交易を独占していたスペインに長らく、利益をもたらすことになった。
 中盤は、コチニールをめぐるヨーロッパ人の反応。染料として使えるか、南米を支配したスペイン人たちがどのように反応したか、コチニールの正体をめぐる学術的な論争。さらには、英仏蘭のヨーロッパの有力国が、自国の支配地域にコチニールを移入しようとするスパイ大作戦。南米に入った他国人の行動を制限する制度とコチニールが環境の変化に弱い繊細な生き物だったことが、他国への定着を難しくした。フランス人ニコラス-ジョセフ・ティエリー・ドゥ・ムノンヴィーユのように持ち出しに成功した例はあるが、ナポレオン戦争とその後の南米植民地の独立に至るまで、コチニールの独占は守られた。長い期間にわたって家畜化が進んだコチニールは、世話に手間がかかり、独立自営農民の辛抱強い世話が必要であったことが、コチニールを先住民たちのもとに留め、コチニール育成を行っている地域の経済的繁栄と先住民社会の文化の維持を可能にした。もし、プランテーションで大量に生産できるような大雑把な生き物だったら、あっという間に旧大陸にも広がっていただろうな。長い品種改良の歴史が、先住民社会を守ったというか。
 最後はコチニール生産の拡散と合成染料にとって代わられる、落日の時代。ナポレオン軍による侵攻、その後の混乱と自由主義改革は、南米植民地をスペインから独立させた。この間、統制力の低下の結果、メキシコ・オアハカ高地からコチニール育成の技術が外部に流出する。南米ではグアテマラの生産量が急速に伸び、また宗主国であったスペインに持ち込まれたコチニールは、カナリア諸島に移入されここも大産地として急進する。また、オランダの大規模な産業スパイ行為とジャワへの移入、そこで行われた強制生産制度。しかし、ジャワでは気候が合わず、比較的短期間に生産は低下している。このような生産の拡大は、値段を下げ、生産者を疲弊させた。さらに、合成染料の出現がコチニールを追いやる。現在は、食紅や伝統工芸としての織物として、細々と生き残っている。また、合成染料によって安く出回るようになった「赤」という色は、かつての高貴さを印象づける色から、下品・けばけばしい・罪の象徴といったマイナスの意味を持つようになってしまったという。


 以下、メモ:

 しかし上流階級ともなると、人目を引く高級感のある真紅や臙脂でなければ受けいれない。そうした色を望む貴族たちの要求に応えるため、染物職人たちはブラジルスオウなど高価な材料に頼った。ブラジルスオウは東洋で発見された熱帯性の密度の高い堅木の総称である。濃く深い赤から紫の染料が採れるが、残念ながら退色が早く、ぼんやりと桃色がかった茶色に変わる。そのため、“騙しのブラジル”は“偽りの色”であると酷評されることが多かった。また、布地を硬くしてしまう性質もあった。それでも良質の赤色染料は入手しづらいため、ブラジルスオウの価値は下がらなかった。のちに南米でこの新種が発見されたとき、その地域全体が輝かしくもブラジルと命名された。p.51

 このあたりの初期のブラジルスオウ貿易って、何か文献があるのだろうか…

 しかし、セビーリャの人々が新大陸の財宝を夢に見ていたなら、はじめの数十年は実際に船がもどっても期待は裏切られたはずだ。コンキスタドールたちはスペインからの船と物資を歓迎したものの、市場性のあるアメリカの産物を船に積みこんで大西洋の向こうへ送り返すことはあまりなかった。商人の立場からいってなお悪いのは、コンキスタドールたちには船を解体してしまう悪習があった。船の肋材や鉄製の金具、大砲は、新大陸での需要が大きかったため、スペインの船はアメリカ大陸に着いたのち、スクラップとして売られることも多かった。代わりの船を確保するために、セビーリャの商人たちはしかたなく使い古しのガリオン船使うことを余儀なくされる。積載量の超過と人手不足がたたって沈没し、関係者全員に多大な損害を与えることもあった。この海運の危機は1540年代になってようやく改善された。アメリカ大陸の産物がセビーリャに大量に流れこんだ。p.102-3

 まあ、確かに船を解体した古材を利用するのは、初期の人員も資源も少ない植民地では理にかなっていることなんだろうけど。商品を送り返してこないと、そりゃ困るわなあ。

 カポニ家とマルエンダ家のカルテルが成功したのは、コチニールが高級織物の生産に欠かせない原料となっていたためである。1550年にはすでに、ヨーロッパの流行に敏感な人々のあいだでは、赤い布地はコチニールでというこだわりがあった。その後2、30年で需要は急速に伸び、コチニールは驚くほどの速さで完全にヨーロッパを制覇した。1580年代になると、伝統的なケルメスは市場の片隅へと追いやられた。司祭が着る赤いビロードの祭服や、洒落者の赤い繻子の袖、貴族の赤い絹地のカーテン、伯爵夫人の赤いブロケードのスカートなど、いまや何もかもがコチニールで染められていた。p.110

 浸透するまでに、およそ半世紀ほどか。

 商人たちにとって、コチニールで染めた布地は富を誇示するためだけでなく、富を得るため手段でもあった。布地の取引のほとんどがヨーロッパ内でおこなわれたが、量に限りはあるものの、コチニール染めの最高級毛織物は中東やインド、アメリカへも輸出された。それはおそらくアフリカにも運ばれ、貴重な品として奴隷の売買にも使われた。ひとりの人間の自由や生命と引き換えにするほどの価値が与えられたのである。p.114

 ヨーロッパの毛織物は概して、アジアでは売れなかったそうだが、こういう最高級毛織物にはそれなりの需要があったんだろうな。例えば、祇園祭の山鉾に使われる緞帳なんかも、ヨーロッパから輸入されているものがあるしな。

 16世紀後半のスペイン人が、当時ヨーロッパではほとんど知られていなかったカカオの栽培をはじめる気になったにもかかわらず、チョコレートよりも重量当たりの価格がずっと高く、世界じゅうの商人が求めているコチニールを手がけなかったのはなぜだろう。その答えは、コチニールカイガラムシの生物学的な脆弱性にあったようだ。天候の変化にきわめて敏感で、天敵や病気に襲われやすいため、低賃金の強制労働者を使って資本集約的な大規模生産をすすめるスペイン式の事業経営には不向きだったのである。p.126

 16世紀半ばには、スペインによる支配と旧世界から持ちこまれた病気という二重の打撃により、先住民の共同体の多くが崩壊しつつあった。文化そのものが消えかかっていた。しかし、コチニールを飼育していた地域―― 一族が離れ離れにならずに生計を立てることができた地域――では、そうした重圧に耐えうる驚異的な力を持っていた。コチニールを育てていた村々では、言語や伝統、文化を何百年にもわたって守りつづけることができた。コチニールの主産地であるオアハカが、今日でもメキシコ随一の多様な文化や言語を誇る州なのはそのためだ。p.136

 コチニール生産が大規模な経営には不向きだったこと。それによって、先住民の文化が守られたこと。