山本紀夫『コロンブスの不平等交換:作物・奴隷・疫病の世界史』

 アメリカ大陸とユーラシア大陸の人間が接触を開始して以降の「コロンブスの交換」。それでは、等価交換が行われたように感じてしまう。ユーラシア大陸の人間はアメリカ先住民が手塩にかけた作物で人口増大に成功した一方で、アメリカ先住民は感染症をもらって壊滅状態に陥るという、不等価なものであったと指摘する。そのような意図をこめて、タイトルに「不平等交換」と入れられている。ただ、「コロンブスの交換」のコロンブスは、象徴的なものなのではなかろうか。
 まあ、どう解釈するにしろ、アメリカ大陸の住人が一方的な損を被る「交換」だったことは確かだよなあ。


 アメリカ大陸の広域で栽培されて、5000年かけて、徹底的に改良が重ねられたトウモロコシ。ペルーの山岳地域で栽培化され、ユーラシアではずいぶん遅れて広まったジャガイモ。地中海から持ち込まれて、ヨーロッパへの輸出品となり、奴隷制の根源となった砂糖。このあたりは、類書がいろいろあって、まだ、多少なりとも知識があったが、第4章の家畜の話が興味深い。
 ヨーロッパ人が持ち込んだ牛や馬が、野生化して、草原というほとんど未利用のニッチに進出。特に、南米では、16世紀から、パンパなどにユーラシア大陸産の牛馬が進出していた。北米の大草原に馬が導入されたのは、18世紀以降と、むしろかなり遅かった。北米の平原という生態的ニッチには、バイソンという先住者が存在したが、南米のパンパには、どういう先住者がいたんだろう。
 16世紀の時点で、アメリカ大陸の南米植民地からの主要な輸出品のひとつが皮革であったこと。1580年代には、砂糖の輸出金額より、皮革の輸出金額の方が大きかったという。北米の毛皮と同様に、南米植民地を支えたのは、動物の皮革であったと。これは意外な指摘だった。冷凍船が出現する以前は、畜産物の大陸間輸出の方法が存在しないと思っていたけど、皮革に加工すれば、長持ちするのだな。長い間、アルゼンチン地域は、畜産物の輸出基地だった。その伝統の上で、20世紀の食肉輸出が存在すると。
 皮だけ剥いで、肉は捨てられていたというのも、凄まじい。


 第5章は、アメリカ大陸に持ち込まれたユーラシアの疫病が、いかに人口を減らしていったか。先住民人口は1割以下に減少って、まさに全滅としか言いようがない。その空白を、ヨーロッパ人が占拠・利用し、政治的団結力を失った先住民を排除・搾取したと。
 最初に、天然痘・インフルエンザ・はしかなどが、中米の文明地域を破壊。その後、アフリカ人奴隷とともに持ち込まれた黄熱病やマラリアが、熱帯雨林地域の住民を壊滅させた。黄熱病やマラリアは、ヨーロッパ人のアフリカ進出を阻んだ疫病でもあるが、それ以上に南米先住民には致命的だったと。
 アフリカやアジア地域では、現地の疫病によって、ヨーロッパ人は拡大を阻止された。一方で、アメリカ大陸では広大なニッチを作り出したというのも、パラドックスだな。


 以下、メモ:

 もう一つの〔牛の〕種類は、山に逃げこみ、数がふえ、なにしろぎっしりと茂って足の踏み場もないひどい所にたくさんいるので、焼印も押してなければ、持ち主も決まっていない。だから、山で狩をするときのように、最初にこれを狩りたて殺した人のものになる。エスパニョーラおよびその付近の島では、こんな工合にして牛がふえ、持ち主もないままに、何千頭も山や野に遊んでいる。この種のものは、皮を利用する。黒人、白人がデスハレデーラ〔動物の膝の腱を切りおとすためのかぎ形の刀〕を持ち、馬に乗って野原に行き、雄牛雌牛を追いかける。そして、傷つけ、倒れた獲物は、自分のものになる。皮をはぎ、家に持って帰るが、肉は、あり余っているので、利用する者もほしがる者もないままに、その場に棄て去られる。エスパニョーラ島の人々の証言によると、場所によっては、腐った肉がたくさんあって、空気が汚染しているとのことだった。


 この記録に見られるように、牛の最大の用途は皮をとることであった。当時、皮革は鎧やズボン、ロープなどさまざまな用途をもつ材料であり、アメリカでもヨーロッパでも大きな需要があった。そのため、たとえばエスパニョーラ島だけでも一五八七年の船団でサント・ドミンゴからスペインに三万五四四四枚の皮が送られた。「その船団が積荷をおろしたとき、セビリャの川とその砂岸に、そのように大量の皮革と小品が並んださなま、まさに壮観だった」と先のアコスタは述べている。
 同じ年、メキシコからスペインに送られた皮革は六万四三五〇枚に達していた。この当時、エスパニョーラ島ではすでに砂糖生産のプランテーションも始まっていたが、その砂糖生産をしのぐほどに皮革の輸出は盛んだったのである。ちなみに、一五八〇年代、エスパニョーラ島の年間収入は砂糖によるものが六四万ペソであったのに対して、皮革からは七二万ペソの収入があった。p.171-3

 その後、このパンパにおける牛の放牧は南アメリカ南端のパタゴニアまで広がる。そのため、植民地時代のパンパの主要な輸出産品は牛からとった皮革となった。とくに、一八世紀になるとヨーロッパでは産業革命が起こって機械の使用が増えるようになるが、初期の機械には可動部分をはじめ皮革部品が多く、牛の皮革に対する需要が急増するようになった。ここで重要な役割をはたしたのが一般にガウチョの名前で知られるようになった人たちであった。p.174-5

 植民地の経営、産業革命における皮革の重要性。へえ。
 植民地経営において、皮革からの収入は大きかったと。パンパでは、根幹であった。
 機械に皮革が重要であったというのも興味深い。確かに、ゴムが一般化する前は、シーリングだの、接触面の保護だのに、皮革くらいしか素材はなさそう。ベルトで動力を伝動する場合にも、皮製のベルトになるだろうし。

 大平原の諸部族は、バイソン狩猟に特化したとき、それ以前の文化的背景が異なっていたにもかかわらず、文化的な共通性を多くもつようになった。家屋は、丸太と皮を材料にして容易に組み立て解体できるテント、ティーピーに変わった。ティーピーは、バイソンの皮を八頭分から一二頭分を縫いあわせて作った多角錐のテントで、持ち運びにも便利であった。衣服もなめし皮を主にしたものになり、とくに男は乗馬に便利なズボンを着用した。p.182

 生業の変化にともなって、文化も劇的に変わると。