ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明 (講談社選書メチエ)
- 作者: 河野淳
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/05/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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具体的なハプスブルク家のオスマン・トルコ対策はなかなか興味深い。宮廷軍事局による情報の一元的管理と蓄積、財源確保のため帝国全体からの対トルコ戦争の援助金の獲得、国境地域への軍事植民とそれをめぐるクロアチア諸侯との対立、一般庶民へのメディア戦略。そして、本書の核となる1566年のオスマントルコとの戦争と、その費用確保のために帝国議会で行われた議論と議会工作。スペイン系のハプスブルク家はフランスや低地地方での戦争でしょっちゅう破産していたが、オーストリアのハプスブルク家も負けず劣らず金策には苦労していたと。まあ、近世の王権ってのはどこも戦争の費用に苦労していたわけで、フランス王家なんかも債務不履行は何度か起こしているわけだが。
以下、メモ:
14世紀からビザンツ世界を取り込み始めたオスマン帝国は、16世紀に至るまで、地中海交易の守護者として、地中海を中心とする旧い経済システムの中心的な存在だった。旧い経済システムにおいて営まれていたのは、奢侈品を中心とした遠隔地商業であり、人々の自給自足を補完するような商業であり、そのままの形での持続を念頭に置いた経済活動だった。オスマン帝国内部に目を向けてみると、商品の価格は国家によって厳しく規制され、生産活動における変化、拡大も禁止されていた。オスマン帝国における経済活動は、国家に安定して資源を供給すること、そして人々の必要を安定して満たすことを目的としており、そこから逸脱するような行為は厳しく取り締まられた。「すべての人が満足しており、したがってこれを変更する理由は存在しなかった」。このようなオスマン帝国の庇護のもと地中海経済は機能していた。p.14
ところで、このヨーロッパ経済の中核の移動は、どのような原因によるものであったにせよ、すんなりとゆくものではなかった。旧経済の盟主オスマン帝国はバルカン半島、中東欧を支配下に置こうとしきりに軍事行動を起こした。後の世界システムの半周縁、周縁をなすハンガリー、クロアチア、ポーランド、ドイツといった地域をオスマン帝国は脅かしたが、結局のところハンガリーとクロアチアの一定の部分を支配下に置くにとどまった。このことは世界システムにとって大きな意味を持つ。世界システムは中心、半周縁、周縁が揃ってはじめて成立するものであり、中心(オランダ、イギリス)に産業の原料、食料を供給し、産業製品を購入してくれる中東欧の大部分がオスマン帝国の支配下に置かれてしまっていたら、ヨーロッパから世界システムが順調に育つことはなかっただろう。オスマン帝国支配下のヨーロッパ諸国では、農業生産がオスマン向けに変化していったことを、実証研究も示している。p.15
うーん、オスマン・トルコが中東欧地域に安定した支配を確立できたかどうか自体が疑問なのだが。ビザンツ帝国の後継国家であるという限界を突破できたかどうか怪しい部分がある。ついでに言えば、ポーランドやドイツ方面に進出できたとして、その地域の経済をオスマン側に再編成できたかどうかは疑わしい。そのあたりの議論は、チュニジアから西側の諸国が、オスマン帝国とどのような経済関係を取り結んだかを検討してから議論すべきレベルの話。ハンガリーはドナウ川経路でバルカン方面との関係を構築できるが、それより北はどうか。オスマン支配、実質西欧の経済植民地となる可能性が高かったのでは。
あと、帝国議会にかんしては、「もっぱら制度上の枠組みの変化をもって「発展」や「完成」が語られてきた(p.102)」と指摘する割に、オスマン帝国の経済については外面的な評価をそのまま受け入れているのが気になる。「ギルド」や「ツンフト」が、外観的には組織内の平等を謳いながら、その内部では階層分化などの変動が起こっていたことは、実証研究で指摘されている。そう考えるなら、オスマン帝国の経済に対する言明とは別に、実態では激しい変化を予想することはそれほど難しいことではないのではないだろうか。オスマン・トルコ内部の経済については、私も無知だが、本書で引用されている文献は、ヨーロッパ中心主義の偏りを感じるのだが。
このような官庁が設立されるまで、ハプスブルク家の戦争とそれに付随する外交活動はきわめて個人的、かつ散漫に行われていた。戦争の前提となるような外交は皇帝個人あるいは皇帝の名のもとに顧問が行い、文書はそのたびに散逸していたし、各地の司令官から送られてくる報告書も用が済めばどこかへ消えていった。皇帝が各地の司令官などへ発する指令も、どのようなものがいつどこへ送られたか、一年さかのぼって分かる人はだれもいなかった。要するに戦争にせよ、外交にせよ、その場かぎりのことが行われていたのである。ハプスブルク宮廷が行っている戦争や外交にまつわる事柄の詳細(日時、数量)を逐一記録し、整理し、必要とあらば提示するという能力は、今日のわれわれからすると不思議なことだが、1556年までハプスブルク宮廷のどこにも備わっていなかったのである。p.47
ハプスブルクの宮廷軍事局の設置について。この時期まで、いろいろな処理が、当事者単位で処理できていたという側面もあるのだろうな。都市とか、村落とか、個々の領主や担当者任せで、国レベルではどんぶり勘定。オスマン・トルコはそれではすまなくなったというのも重要なのだろう。
ドイツの領邦に税制が導入されるきっかけとなったのは、帝国規模で徴収されたトルコ税である。そしてそのトルコ税は、皇帝が「共通の危機」というスローガンを後に見るような綿密な情報戦略で裏打ちしていたがゆえに、帝国議会において承認されたのである。聖性なきドイツで、中世以来の常識を覆して税制を導入するには、公共心に訴えるスローガンと、それを裏打ちする何か、が必要だったのである。そして、フランスの税制と、ドイツの帝国、領邦の税制を比べれば分かることだが、ナショナルな聖性による課税が、努力をあまりせずとも大きな成果を得られたのに対し、公共心に訴える課税は、大変な努力をして、ようやく必要最低限の税額を確保できるという、厳しいものだった。p.57-8
フランス王権にしても、そう簡単に税収を確保できたわけではないのでは。新しい税金を導入するには、いろいろと身分制議会などとの交渉が必要だったわけで。基本、フランスの王権も貧乏だし、それはルイ14世の時代でも変わらなかった。基本的に、近世までのヨーロッパの国の実力は、大したことがない。あと、フランスの税金と比較すべきは、オーストリア領国内の税金なのではないだろうか。
しかしキリスト教徒がオスマン帝国からキリスト教国に流入するというのは、必ずしもイスラム教徒のもとから逃げてきたというわけではなく、あくまでよりよく生活してゆくための一つの選択であったので、キリスト教国に流入する際の条件が悪ければ、オスマン帝国にとどまることも考える、というようなものだった。ここで、オスマン帝国内に住む司教が1596年に、ハプスブルク側に流入した場合の待遇を問い合わせている史料を見てみよう。
ウーナ国境に住むキリストの子ら、30名の僧侶を束ねる真実の信仰の司教より、高貴なる殿下[……]へ。[……]われわれは、殿下と、すべての司令官に忠実なる臣下として服従いたします。[……]どうかわれわれに、殿下がわれわれ[……]にどのようなことをしてくださいますのか、お教えください。私、司教といたしましては、一つか二つの城をいただきたい。[……]とはいってもウーナ川とクーパ川(原文ではkulp)の間にある、荒れ果てた70の城の内の一つ、それも立派なものではなく、小さなものでよいのです。
というように、この司教はかなりの待遇を求めている。このように、国境付近に住む人々によって、国境の両サイドは、生活の場として検討すべきものだったのである。p.97-8
なんともすがすがしいまでの両天秤ぶりw
スペイン王位獲得に失敗し、冷徹な現実に直面することになったハプスブルクであったが、さらに直面することになったのが、プロイセンという強敵である。政治的な手腕だけでは太刀打ちできないこの強敵の強さは、官僚制、近代的軍隊といった機構に支えられていた。マリア・テレジアが18世紀中頃からこれらの機構を整備し、さらにバロック的な心情を捨て去って現実本位の政治、つまり実証主義政治を取り戻したことで、ハプスブルクは近代世界に再び確たる地位を得ることができたのである。マリア・テレジアやその息子ヨーゼフ2世は、現実を見据えた政治を行って近代ハプスブルク国家の基礎を築いたことで知られるが、彼らはもはや「オーストラリアの敬虔さ」などという理念を政策の出発点にすることはなかった。p.216
啓蒙主義的な政治も「思弁政治」の一種だと思うのだが?
このあたりのデータ主義みたいな統治感については、このあたりを読まないといけないな。あと、政治算術とかこのあたりの研究史とか。
阪上孝『近代的統治の誕生:人口・世論・家族』(ISBN:4000225014)
A・W・クロスビー『数量化革命:ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』(ISBN:4314009500)