- 作者: 大内建二
- 出版社/メーカー: 光人社
- 発売日: 2011/09/30
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宮崎駿の『雑想ノート』で漁船を徴用した特設監視艇が取り上げられていたが、そのような漁船や機帆船がどのように徴用され、どのような場所で活動したかをまとめている。 正直、具体的な戦闘や船の活動に関しての記述は少なく、内容も重複が多い。しかし、苛烈な戦闘に放り込まれた一般の漁船や機帆船の苦しい戦いの輪郭は分かる。民間船乗組員の犠牲者の総数6万人余のうち半分の3万人強が、戦地に駆り出された小型船舶の犠牲者で、かつ具体的な情報不足で、実際にどのように戦ったかを明らかにできないという。当時の生き残りに話を聞いて回るというのは、いまとなっては現実的ではないし、漁民の都市への移住など人口が流動的だったことを考えると、戦後早い時期でも聞き書きは難しかっただろうな。
具体的な事例としては、島根県の浜田と出雲漁港に所属していた15隻、乗員100名がラバウルに派遣された例を紹介している。そもそもたどりついたのが8隻、さらに帰国できたのは10人に満たないという。ソロモン諸島やフィリピンに派遣されたって時点ですでに死亡フラグだよなあ。島嶼地域では、機帆船や小型漁船は、小回りが利いて輸送連絡に便利だったようだが。インドネシアならある程度平穏だったのだろうか。
全体的な内容はおよそ四つに分けられる。
最初は漁船の軍事利用。徴用された漁船の大半は特設監視艇として、本州の南や東で、敵艦隊の哨戒にあったった。ある程度の大きさの漁船が利用されたという。武装の強化もなされたようだが、400隻ほど徴用されたうち、残ったのは100隻程度だったという。具体的な事例としては、ドーリットルによる爆撃の時の、第二十三日東丸の事例が紹介されている。他に、捕鯨船や遠洋トロール船を徴用した特設駆潜艇や特設掃海艇の解説や戦果。小型の漁船を利用した島嶼地域での輸送活動とその被害など・
続いては機帆船の利用。小回りのきく輸送力として、日中戦争の頃から東シナ海や長江流域の輸送に利用され、南方への日本軍の進出に伴って機帆船も派遣され、島嶼や海岸地域の連絡輸送に利用されたという。あとは戦時標準船の急速建造の話や大戦後半の石油の輸送作戦など。
三番目は小型船舶の乗組員の犠牲者に関して。ごく短い。3万人強というのは、確認できた犠牲者で、正確な数は今もって不明だという。また、漁船が家族経営だった特性上、未成年の犠牲者がかなりの数に上るとも指摘される。
最後は、他の交戦国、英米独の漁船の軍事利用の紹介。船団護衛に武装したトロール船を利用したイギリスの事例は比較的著名なのではなかろうか。あとは、巾着網漁船を利用したアメリカの特設掃海艇とか。
以下、メモ:
現在に残る各地の機帆船関係者の証言によると、信じられないことであるが機帆船の所有者に対し、事前通告なしに「ある日突然の徴用命令」が下されるのである。つまり港に停泊中の機帆船に突然、徴用担当の陸軍将兵が現れ、「この船を本日をもって徴用する」と命令が下されるのである。そしてその場で準備が出来しだい指定された場所(特定の港)への回航の命令が下されるのである。
このように乗組員が家族との連絡もできないまま、突然に行き先不明となった機帆船は相当数にのぼると推定されており、現在に至るまで行方不明となっている機帆船やその乗組員は、このような状態での出撃が原因であると想定されているのである。p.40
ひでえ。こういう無茶苦茶をやったから、軍部は嫌われたんだろうなあ。