伊藤正敏『日本の中世寺院:忘れられた自由都市』

日本の中世寺院―忘れられた自由都市 (歴史文化ライブラリー)

日本の中世寺院―忘れられた自由都市 (歴史文化ライブラリー)

 大規模な寺院は、境内に多数の人々が居住する「境内都市」であり、そこには統一的な権力はなく、無秩序でだからこそ自由な世界が存在したと指摘する。興味深いのだけれど、攻撃的な筆致にちょっと引く。あと、宗教と呪術の二元論とか、合理主義を強調する議論にもちょっと違和感が。寺院が都市としての凝集性を持つには、中心地の要素として宗教はやはり重要なのではないだろうか。現在から見て、当時の信仰、あるいは宗教が都市の核として持つ機能を理解するのは難しいとは思うけど。ヨーロッパ中世都市の研究では、都市の原初的な核として、宗教施設が重視されるが、同様のことは中世寺院にも言えるのではないだろうか。
 第一部は世俗的存在としての中世寺院。さまざまな分野の技術者が集住する「テクノポリス」であり、独自の武力を持つ存在だったこと。経典の解釈から始まる弁論術、さらには呪術などの操作によって、他の政治勢力を動かしていた状況など。
 第二部は、都市としての中世寺院とその社会。境内に人が集住し、もともとの寺院の結界を破って拡大していく状況。門前都市としての京都。単純労働者の集まる状況。学侶、行人、遊行僧の三身分の力関係や境内都市での匿名性など。
 第三部は中世社会と境内都市の関係。墓盗人や王権への態度から、寺院に集住する人々が霊や王権に対する畏怖の念を全く持っていなかったこと。思想の役割、遊行僧の文化伝達による日本の民俗文化の均質化、中世国家論としての「多元的全体社会」。
 うーん、全体的に分かったような分からないような。あと、ヨーロッパの「自由都市」と本書で扱われる「無権力都市」としての「自由都市」は全く違うものだから、そこははっきりさせたほうがいいと思う。「都市の空気は自由にする」って有名なフレーズも今では、そう単純に使えないものとなっているし。法的身分とか、そういう話になっていたはず。


 以下、メモ:

 古代寺院は、宮殿でさえほとんど使われない瓦やみごとな礎石を使用し、極彩色を施した豪壮な建物をもつ。寺院建築は何よりも、贅をつくした空間であるべく最大の努力をはらって建てられた。より大きくより華美に、これが寺院建築のめざしたものである。
 たとえていえば、これらは今日の新宿西口や池袋の高層ビル街、お台場、また梅田ツインタワー、東京ほか各地のドーム、一昔前なら東京タワー・通天閣に相当する。都市および後述の都城に必ずみられるシンボル建築である。p.1-2

 新宗教の巨大建築ってのは、正しく、こういう建築のあり方を継承しているんだろうな。【画像あり】とある新興宗教の施設がすごすぎると話題に【念佛宗】みたいな感じで。

 頭が混乱したかもしれないがそれでよい。実態そのものが混乱状態なのである。人びとは霊験ある呪術霊を、矛盾など無視して何でもとり入れた。現代人もヴォルテージは低いがよく似ている。まだ戦国新仏教セクトは無力であり、これらノンセクトまたはセクト末端の念仏者・持経者・禅律僧、それこそが鎌倉仏教の主役である。かれらはまじりあって、カオス状態ながら全体社会に高い仏教的ヴォルテージをかもしだした。これらを教学的にうるさく分類するのは意味がない。みな新仏教的エネルギーを秘めた旧仏教カオス=「鎌倉仏教」である。このカオスからはみだして宗教に傾斜したのが、法然親鸞日蓮以下戦国新仏教教祖師個人であった。鎌倉仏教を語るのにかれらを無視することはできないが、かれらは全体社会の信仰を同時代において掌握しえてはいない。全体社会のエネギッシュ・カオスこそが時代精神である。歴史における個人の過大評価は禁物、みんな時代の風に吹かれているのである。p.9


 物理的強制力を一方の柱におくこの種の集団は、威嚇力を失ったら崩壊が待っている。神人に対する国司の侮辱・暴行といったささいな事件が、一山大衆をあげての嗷訴となる。ここで威嚇力を誇示しておかなければならない切羽詰まった理由があるためである。
 寺院のために暴力をふるって、公家から罪科に処せられた僧侶が英雄にまつりあげられる例が多い。経済人の集合が、強固で狂暴な物理的強制力を行使する行動隊に一瞬にして変貌する。嗷訴のほとんどがこのケースである。メンツを傷つけられて黙っていたならば、債権取立などの経済行為に必要な強制力が、以後致命的に下落するという重大な影響があるのである。p.53

 まあ、正しくヤクザの行動原理だな。自力救済で行動する集団は、多かれ少なかれこういう行動をする。武士団もそうだし。

 中世寺院はテクノポリスであり、強大な軍事力をほこる軍産学複合体である。宗教とは無縁の行人が中核である。現代のイメージにひきずられて、実態をみずに宗教から先に寺院を考えるのは順序がまったく逆である。この種の誤謬を「さかだち」という。学侶史・高僧史という害虫のせいである。これを駆除する行人・遊行僧史の出番がきた。
 十二世紀の日本の都市は京一つだけ、ほかにはせいぜい大宰府・平泉・鎌倉ぐらい、この通念は完全な誤りで、近畿地方は都市だらけであった。従来の都市史は寺院の法衣にまどわされて、この中世社会最大の都市の存在を完全に見落としており、京・鎌倉・堺や戦国大名城下町などの研究に偏向している。また京・奈良や坂本の性格を見誤っている。これは致命的欠陥で中世都市史は従来の成果を清算したうえで、一から出直しである。境内都市の考察を抜きにした都市論などありえない。日本で最初に自生したメガロポリス、なおかつもっともピュアな自由都市である。その発生―発展―滅亡は、全体社会の革命であり、歴史の段階を画する重大な転機である。p.76-7

 そこまで言うのはどうかと思うが、ある程度は首肯するところかな。

入勝制
 十五世紀の南都は、名称からいえば、東大寺・大乗院・一乗院・寺門・元興寺の各郷の複合した都市である。東大寺興福寺の二者、あるいはむしろ東大寺・一乗院・大乗院(後二者は興福寺の二大門跡)の三つの境内都市の複合体である。中世では警察権の発動を「検断」という。南北朝期の奈良の検断権は、これら三者が保持し、支配領域や犯罪内容によって権限が分割されていた。この分割のルールは固定していたのではなく流動的であり、各時代により変化した。検断に当たる者は犯人の財産を没収できる。この経済的利益が大きい。
 さて元興寺郷の検断権は、興福寺衆徒・別当・一乗院・大乗院が保持し、そのうち最初に権断使(警官)を入れた者が当該事件の検断権をもつ、というのが十五・十六世紀の検断権秩序であった。いわゆる「入勝制」である。
 現代の常識で考えると、絶対に理解不能な事象である。「一定地域に一つの権力」というドグマを捨てなければならない。このドグマのまちがいは中世史の常識である。だが権力論や国家論の問題になるとつねに復活するドグマでもある。単一公権の保持者が存在しない、すなわち無政府の多元的勢力バランスの世界。これが境内都市である。p.86-7

 なんかサイバーパンクの世界だな。民間警察が早い者勝ちで犯人を奪い合うとか、普通にありそうだ。

 ところで院政期の『年中行事絵巻』で諸社の祭礼場面をみると、長刀・弓矢を持たない人のほうが少ない。これらに邪気をはらったり、神の降臨する呪術シンボルとしての意味しか見出せないような感覚はゆがんでいる。実際文永六年(一二六九)六月十四日などには見物の武士との間で傷害事件がおこっており、ケンカは日常茶飯事であった(『天台座主記』)。江戸時代、天和三年(一六八三)に、諸社の神事に具足・刀・鑓などをコスチュームとして用いることを禁ずる治安立法が出された(『八坂神社文書』三二八号)。武士以外は日常、武装解除させられている近世社会においてすら、祭礼とは武装した人びとの集結する時空なのである。長刀は第一義的に武器であり、これを威嚇的にふりまわすことは、中世人にとって大いなる生命の解放なのである。呪具・祭具であることは二義的である。実際祭礼の場には危険がつきまとう。祭は一面戦闘のシミュレーションである。一々の事象に呪術的な意義を付会する近年の学説は問題が多い。
 祇園会は院や将軍がたびたび見物する京の風物詩でもあった。しかし天文の画期以前は公家・六波羅探題室町幕府に対する軍事デモンストレーションとしての意味が見出せる。嗷訴により祇園会が中止(延期が多い)されるのは、祇園会が嗷訴の代償行動であった証拠である。武具は着していないが武器はもっている。武装集団の集結状況という点では両者はなんら変わりない。平和時にこそ軍事力の顕示が欠かせない。p.105-6

 軍事的なデモンストレーションとしての祭礼。

 境内都市は、決断、すなわち構成員の独走によって決定がおこなわれる「自由都市(無権力都市)」である点に最大の特徴がある。公家・武家の世界にも同様な力学はあるがこれほど露骨ではない。この「自由」は中世語の自由、自由狼藉の自由である。どちらかといえば「自分勝手」というニュアンスの強い否定的な意味のことばであった。ワイルドな人間やその集合は魅力的であるが、危険な存在であることも否定できない。とはいえ自由の要素がもっとも強い場は、武家でも公家でも惣村でも自治都市でもなく、やはり境内都市の世界である。
 都市共同体部分はたしかに組織度が高い。だが村落共同体のように住人の生活全般を規制するものではなく自治の規定性は相対的に弱い。したがって境内都市の合意形成はしばしば共同体的原理、共同体的行動類型からはみだす。総体としての境内都市に自治はない。
 南都の検断入勝制は非自治世界における合意のルールをわかりやすい形式で制度化したものであるが、法理念のかけらもない便宜主義である。境内都市の「政治構造」は、制度化度の低い多元的権力構造である。このような奇妙な状況的バランスに支えられた社会は、自治からも権力からも、もっとも遠い地点にある。もちろん諸勢力は法に支えられてもいないし、一定不変でもないから、この「権力構造」は「不安定の安定」である。これは諸集団の合意形成システムにはちがいないが、単なる紛争処理システムの域にとどまるもので、政治的能動性を欠いたものである。
 かかる無秩序状態は権力構造とはいえず、遠からず混乱を招いて崩壊し、新たに強力な政府が樹立される、と考えるむきがあるかもしれない。だがそれはまったく根拠のない神話なのである。そのことは境内都市群五〇〇年の歴史が雄弁に物語っている。また中世の環シナ海海民は中国・朝鮮半島琉球・九州をまたにかけて活動し、近代まで一度として国家の枠にはいらなかった。環シナ海秩序は境内都市群以上に長く存続した。
 今だったら毎年のように政変をくりかえす第三世界をみよ。不安定にみえても、これらは長い目でみれば一応の定型的な政治文化なのである。インフォーマルな社会的合意に支えられた「無秩序の秩序」という政治構造、状況のオキテ(=制度)は実在する。「状況を状況のまま制度化」したのが中世全体社会であった。p.132

 ここ20年ほど紛争解決が歴史学でよく研究されているな。前近代ではどこも自力救済による状況的な制度が、国家の外皮を被っていることが多いんだけど。近世から近代に入って、凝集力の高い国家が、ヨーロッパや日本あたりで出てくるわけだが。

 文化史研究において重要なのは「量」である。さまざまな大衆文化が百花繚乱と咲き乱れたのが、南北朝室町時代であって、幅広い基盤の山頂に質の高い文化が成立した。どこの村でもおこなわれていた猿楽や能と、高い教養を必要とする観世の能との関係がよい例である。一時的な流行にすぎなくとも「低俗文化」に価値がないわけではない。むしろサブカルチャーにこそ大きなエネルギーは宿る。芸術から退廃までをふくんだ底辺の広さこそが、真の意味における「文化の高さ」である。文化ジャンルに貴賤はない。
 従来の文化史の問題は、時代を超越した特殊な個性をもつ天才たちの想像した芸術を素材として、社会背景の像を描いていることである。文化史はサブカルチャーをふくめたあらゆる文化を対象とすべきであり、後者をぬきにして文化を語ることはできない。つまり貴族や貴族化した文化に偏向しているのである。この問題点は宗教史もまったく同じで、宗教的偉人を除外した絶対多数にこそ着目しなければならない。p.178

 だからこそ、最近は悉皆調査なんかをもとにした議論になりつつあるようだが。この底辺の広さってのは重要だと思う。「クールジャパン」とか言っている連中がダメなのは、幅の広さや猥雑さを排除して、自分の気に入った所だけを商品化しようとするところにある。そんなことをしたら死んでしまうのに。
 あと、これは文化に限らずいろいろな分野に言えることで、高い達成を出すには底辺が広いということは重要なんだけど、自由競争とか少数精鋭が好きな人間が世の中多いんだよね。何かを高く維持したいなら、底辺を広く維持しないといけないのに。