藤田弘夫『都市の論理:権力はなぜ都市を必要とするか』

都市の論理―権力はなぜ都市を必要とするか (中公新書)

都市の論理―権力はなぜ都市を必要とするか (中公新書)

 都市という存在を、権力や安全保障・食糧供給といった観点から議論している本。おおまかにはなるほどという感じだが、都市にも大小あるうちの、首都になるような都市だけに光が当たっている感があるな。まあ、権力の装置としての都市という視点からの議論だから、もっとも権力が集まっている「首都」に議論が集中するのは致し方ない部分があるけど。あと、本当の最初の最初には、権力の中心には常駐の人員はいなかったかもなあとも思った。
 体制と食糧の供給という観点では、先日読んだ斎藤美奈子戦下のレシピ:太平洋戦争下の食を知る』と通じるテーマか。農村から食糧を収奪し、そのルートを支配する都市は、戦争などでそのルートが破壊されない限りは、なかなか飢餓に瀕しないと。


 第一章は、「都市とは何か」。まず都市は巨大集落であること。その存続のために外部に食糧の供給を求める必要があること。また、生存や安全などの「保証」するものとしての権力についての議論が行われる。
 第二章の「都市の建設」が興味深い。クーランジュの『古代都市』を引いて、都市が権力によって政治的に意思決定され、「建設」される存在であること。これは確かにそうなんだよな。中世ヨーロッパの建設都市とか、インカステラメント。日本でも、古代の都城とか、城下町は、政治的に「建設」されている。また、都市が権力の拠点であり、支配下の地域を、自己の都合によって改変していくこと。これらを可能とするために、コミュニケーションの装置を設置することが指摘される。
 第三章は都市の施設的な側面。城壁などの防御施設。あるいは、権力の世界観を表現し、力と正統性を誇示するための、さまざまな象徴的な建造物について。あとは、都市の建設のために場合によっては膨大な犠牲が払われることや、当該権力の存続のために、あえて放棄される場合があることなどが指摘される。
 第四章は「場」としての都市。当該権力がどのような存在かを確認するために、儀礼が行われること。また、日常生活の中では崇高な理念ではなく、形而下的な部分が重要であり、生活の保障が重要になること。首都に集まった群衆の意思表示が権力の存廃に重要な意味を持つことや、その観点で分配の不公正に対する不満が原動力になることという指摘が興味深い。あと、都市の「自治」というのは、基本的には特殊ヨーロッパ的な問題だと思う。
 第五章は都市がどのようにみられたかの話。都市と都市の生活については、常に賛否両論があったこと。都市を退廃とみなし、田園を称揚する思想が常に存在したこと。一方で、実際に都市を消去してしまうと、社会がむき出しの暴力以外で維持できなくなることを、クメール・ルージュの「実験」から指摘する。


 以下、メモ:

 人びとが権力に求める欲求充足が多様であるように、権力が人びとに求める支配も多様である。二つと同じ家族がないように、どの権力にも同じものはない。権力はたとい同じようなものと見えようとも、どれも微妙に違っている。政治、経済、宗教、教育、娯楽、医療などの権力はたとい同じように見えようとも、それぞれが独自な構成をもっている。
 それどころか、ひとつの権力さえ、時間により刻々とその姿を変えていくのである。そうした権力の具体性を抜きにして権力を語ることはできない。権力が人間の社会に〈歴史貫通的〉に、また〈通文化的〉に存在しているにもかかわらず、それぞれの「歴史」や「文化」を離れては論じられない理由がここにある。実際に権力がどのような形態をもって組織されるかは、ひとえにそれぞれの社会がたどった歴史や文化にかかっている。p.53

 権力の具体性。

 ヨーロッパの宣教師は一八七〇年代の後半にインドと中国を襲った大飢饉の後、多くの改宗者を得ることができた。その際、かれらは民衆の生活を保護できない土着の神の誤りを告発するとともに、キリストこそが、慈悲と愛情をもって民衆を守ってくれると主張したのである。p.136

 うーん、えげつない。