鶴見良行『バナナと日本人:フィリピン農園と食卓のあいだ』

バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ (岩波新書)

バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ (岩波新書)

 これからしばらくバナナ本。最初は古典的名著。1982年刊行だから、丸30年前の本か。プランテーションの不平等・人権侵害問題を知らしめた作品。うーむ、読んだのはいいが、考えがまとまらない… もともとバナナを食わないから、良く分からないんだよな。
 前半はバナナ栽培に至る条件として、ミンダナオ島の国際商品生産の歴史。なんというか、植民地の植民地といった趣。ルソン島を中心とするフィリピン国内の問題のはけ口としての小作農の移民先となっている状況。あるいは、先住者がいて耕作している土地を、登記されていないから「公有地」だとして奪って、土地集積が行われる状況。旧スペイン植民地だった国って、どこも大領主、アシエンダによる土地の支配と暴力、先住民の追放が共通してみられるように思うが、なんでだろうな。
 前史としての日本人によるアバカ麻の生産、第二次大戦による断絶、名義借りによる脱法的な土地の確保とそれがバナナプランテーションの土地集積に利用される状況など。
 後半はチキータ、ドール、住友商事などのアグリビジネスによる、対日バナナ輸出経済の運営の話。輸送・販売・技術資材の供給・金融・香港などを通じた価格移転などを通じて、バナナ生産からの収益を極大化し、リスクを避ける手法。地元資本と結んだり、国家と結んだり、契約農家にリスクを押しつけたり。結局、借金でがんじがらめにされ、作れば作るほど赤字が膨らむが、それから逃れられない状況。自己消費の作物の生産を禁じられ、逆に金が必要になったり。買い取り価格に市場価格が影響しないようにしたり、廃棄率を操作して、リスクを契約農家側に転嫁するシステムの酷さ。こういうのはどこにでもあるんだろうな。
 さらに悲惨なのが、それぞれの農場で働く労働者たち。安い賃金と不安定な身分。多数の失業者、土地を失った人がいるため、労働条件が抑えられてしまう状況。農薬禍。先進国では使用が禁止されている農薬が、規制を緩めさせて、そこで使われる。
 日本での流通にも言及している。需要拡大に伴う強気な契約が、追熟をおこなう「むろ」業者の淘汰につながっている状況。流通過程の多くで損失が出ている状況。
 最後は買ったバナナの向こうに何があるか。消費者責任の問題。もともと食べないからなんとも言えないが、ますます食べる気が失せるのは確か。つーか、半世紀前まで、バナナにしろ、何にしろ、いろいろなものがぜいたく品だったんだよな。


 以下、メモ:

 その牧場とほとんど隣接する高原の一角にデルモンテがパイナップル農園用の8000ヘクタールを確保したのは、1926年のことである。その方法は、さらに奸智にたけた奇抜なものだ。米国は、スペイン統治時代に発達した大地主制のプランテーション(アシエンダ)がフィリピン人を苦しめていることを知っていた。だから、統治開始直後の1903年に公有地法を制定し、法人の所有地を1024ヘクタール、個人の所有地を24ヘクタールに制限した。
 それでは、デルモンテはどうやって8000ヘクタールもの土地を確保したのか。同社は、米軍に働きかけ、ここを海軍基地として指定させ、海軍から土地を租借するという形をとった。つまり高原に海軍基地ができ(!)、そのなかに私企業のパイナップル農園ができたのである。p.32-3

 基本的にアメリカって、出鱈目な国だよな。20世紀初頭の巨大独占企業の話とか、アメリカ人の「自由」って、基本的に「悪徳の自由」「圧政の自由」だと思う。

 前に引用した『マニラ・タイムズ』の記者は、「小作制度で運営されている農園」と書いているが、これはかれの重要な見落としである。15パーセントの手数料も小作料だといえば自営者も小作人であるが、やはりフィリピン慣行の五分五分の刈分け小作とは大きな違いである。つまり日本人労働者とフィリピン人労働者は、同一の条件で働いていたのではなかった。日本人労働者は独立の希望に燃えて乏しい賃金から蓄めたが、フィリピン人労働者に独立の希望はなかった。p.75

 「折半小作制」とも言うんだっけ。戦前の麻農園で、日本人が働いて、フィリピン人が働かなかった理由。

 包囲作戦は、米軍軍政期以来の懸案だったミンダナオ開発、自営農家創出政策とも結びついた。自営農家創出というと聞こえはいいが、実際は中部ルソン、ネグロス、パナイなど大土地所有の発達した土地で地主の搾取に苦しんでいる小作農や農業労働者の放出政策だった。他地方における大土地所有の矛盾が、ミンダナオに転化されたのである。原住民バゴボ族たちは、日本人だけでなく、クリスチャン・フィリピノの圧力も受けたことになる。
 ミンダナオの土地を利用する自営農家創出は、米国統治者、フィリピン政治家の間で早くから論じられている。それはヒトラーユダヤ人圧殺政策とさえ響きあった。50万人のユダヤ政治亡命者の処遇に頭を悩ませたルーズベルト大統領は、ユダヤ人二人をフィリピンに派遣し、ドイツ系とオーストリアユダヤ人1万人の入植を交渉させている。使節二人が希望したのは、ミンダナオのラナオ湖周辺の土地である。ここはムスリムのマラナオ族の土地である。この案が実現していたら、今日のパレスチナよりもさらに複雑で厄介な国際紛争のタネとなっていただろう。帝国主義者とその植民地協力者は、まことに想像力豊かである。
 ともあれ、北方からのクリスチャン・フィリピノの開拓移民は、1935年以降、コモンウェルス時代に急速に増大した。しかしその多くは、土地問題に苦しむ難民の自然流出だった。政府の道路・水利灌漑への公共投資の利益は、北方地主の独占するところとなった。
 1940年、ダバオ、コタバト地方を視察したベニグノ・アキノ農商務長官は、語っている。「開拓者は現地に着いてがっかりした。道路、灌漑の整った土地は、ルソン、ビサヤの金持に押さえられていたからである」。ミンダナオ「無住地」は、北方における大地主制解決の便法になるはずだったが、今またここを地主たちが占領した。p.79-80

 植民地内植民地、社会的矛盾のはけ口としてのミンダナオ島。その結果、現地の先住民はさらに圧迫されるという。しかも、その「はけ口」すら独占してしまう、支配階級の強欲さ…

 タデコ農園は、受刑者を労働力に使って営利事業を行い、しかも外国の多国籍企業とも組んだ、世にもまれな事業だった。
 1969年に171ヘクタールだったタデコ農園の植付け面積は、76年には4500ヘクタールに拡大している。26倍の成長である。しかし、この拡大は古くからの住民に犠牲者を生んだ。黙々として土地を耕してきたアタ族700世帯が、「無権利者」「不法占拠者」として、何の補償ももらえず、逐われていった。一方では低賃金労働者が鎖でつながれて働き、他方では、その仕組みからさえはじき出されて逐われた少数民族がいたのである。p.111

 このタデコ、現在はデルモンテと組んでいるようだ。

 膨大な借金をかかえた農家や労働者たちは、すでに十分に貧しいが、そのなかから爪に火をともすようにして、いくらかの貯金ができたとする。しかし、かれらの生活改善のために、それをどこに投資できるだろうか。借金をまず埋めなければならない。あそこの伯母が病気だったり、こっちのいとこが入学だったりする。残ったカネは、せいぜい何百ペソもあればいいが、それを生産手段の獲得に使う方法は、ほとんど見当たらない。かれらにとっては、2ペソ、3ペソを投じてコーラやペディキュア紅を買うのが精一杯の楽しみなのだ。
 そこに見られるのは、生産の自由と選択が奪われ、消費の自由が強制された経済の仕組みである。労働者は、生産の原点でありながら、その手段からは切り離されている。生産の現場に、競争の原理や市場原理がじかに入り込まないように工夫されたのは、そのためである。p.164


 これと似たような階級差のきわだった景色を、別の所で見たことがある。それはマニラから2時間ほどの郊外ロスバニヨスの国際稲作研究所(IRRI)である。ロックフェラー財団が創立し、IRの頭文字をつけた多収穫品種をかずかず産みだしたこの研究所は、基地のなかで仕事を始めたデルモンテ農園ほどのうしろ暗い過去をもたなかったが、フェンスの外の荒廃、わい雑と内側の整然、分化は、まったくよく似ていた。米国資本の慈善事業は、地主と小作の対立を生産性の向上によって解決するために、この研究所を創ったのであった。p.179

 「生産性の向上」で社会の不平等は解決しないと思うけどね…

 これら以外にも、使われている薬品類は多い。契約農家の清算書を見ると、つけ出される肥料、農薬の種類は、年を追うごとに増えている。これを、科学の進歩といっていいのか、それとも、ますます強い薬品、肥料を使わないとバナナが実らなくなっていると理解すべきなのだろうか。個々の薬が人体に加える毒性は実験室で計れても、これだけ多様な農薬が集中してくりかえし使われたとき、その全体の影響がどうなるかは、まだ科学者の間でも分かっていないことが多い。p186-7

 まあ、後者なんだろうな…