- 作者: 戸高一成
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2009/07/22
- メディア: 単行本
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しかしまあ、海軍の戦史編纂の業務を引き継いだ「史料調査会」に集まった元士官だけに、旧海軍をアイデンティティに持った人たちが中心で、根底から旧海軍を否定する人間は集まらないだろうなと思った。密接に付き合いのあった戸高氏も含めて、インサイダーの見解といった感じはする。
あと、ここで出てくる人たちが、連合艦隊や軍令部参謀の佐官クラスの人が多いが、戸高氏が戦後生まれで史料調査会に関わるようになったのは、戦後30年後程度だと考えると、将官クラスの人は結構亡くなっていたからなんだろうな。
利根の主砲の散布界が広かった話とか、海軍の技術研究所に予算や資材の割り当てがなかった話など、エピソードも興味深い。
以下、メモ:
調査会の初期のメンバー表を見ると面白いのは、富岡さんをはじめ、千早正隆さん、奥宮正武さん(海兵五十八期、中佐)、さらに防衛庁で戦史編纂に携わった方々がぞろぞろいて、加えて技術部門には技術士官だった伊藤庸二さん、福井静夫さんなど、戦後に戦史を執筆した有名どころが勢ぞろいしているのです。それもそのはずで、前述の通り史料調査会は本来、軍令部そのものの生き残り組織という性格があったからで、そこに集う人々も、かつての職場の同僚が多かったのです。p.14
このあたりの自前できっちり記録を残そうって発想が興味深い。
開戦前に空母蒼龍で飯田大尉の部下だった角田和男さんに、「列機は隊長が自爆したので、一緒に突っ込んだのに違いありません。当時の列機には、隊長が自爆してそのまま、はいそうですか、と帰ってくるような搭乗員はいません。彼らは立派に隊長についていったのですと聞かされ、その気迫に粛然としたことを覚えています。実際、小隊の全機が未帰還となったのは飯田小隊だけでした。p.40
後のパイロットの消耗戦を考えると、なるべく生き残るってのは重要だったと思うけどな…
「戦時中は電探や暗号機を作っていたが、艦政本部から試作の命令が来ても満足な予算も資材もない。ひどいもんだ」。ではどうやって作るのかと聞くと、「海軍にアルミシャーシなどを納めている会社に自分で出向いてね、強引に貰ってくるんだよ、いろいろお土産持って行ったりして、大変だった」。戦争中の海軍は目先の戦いに追われ、日本のトップクラスの研究開発機関である技術研究所ですらそんな調子でした。とてもアメリカに太刀打ちできるはずもなかったのです。p.66-7
ダメじゃん。これで勝てるわけはないな…
やがて終戦になり、職を失った中島さんは「食えないから、何か売れるものを作ろうとした。見ると殺人光線用のマイクロ波の電子管がいくつか残っているので、これを使ってコーヒー豆を炒る機械を作ったんだ。要するに電子レンジだよ。終戦直後だよ。これを新橋や銀座の珈琲店で何台か買ってもらった。店ではしばらく使っていたよ。芯からよく炒ることができるので評判は良かった」。日本で電子レンジが販売されたのは昭和四十年頃。当時二十万円くらいで、テレビのコマーシャルを見た私の友人が「電子レンジを買えるようになるのが夢だ」と言ったほどの高値の花のハイテク高級調理器でしたが、実は終戦直後に存在していたのです。もしそのコーヒー豆炒り機が今残っていれば、立派な産業技術遺産でしょう。p.71
おもしろい。まあ、残り部品をでっちあげた機械と量産家電製品では技術的位置づけが全然違うとは思うけど。