砂川幸雄『大倉陶園創成ものがたり:初代支配人日野厚のこと』

大倉陶園創成ものがたり―初代支配人日野厚のこと

大倉陶園創成ものがたり―初代支配人日野厚のこと

 図書館から予定外に本を借りてしまったので、キリキリと読書中。
 先日読んだ、菊地浩之『日本の地方財閥30家:知られざる経済名門』asin:4582856306から、興味を広げて。最初は森村財閥関連から。
 高級陶磁器メーカーである大倉陶園を実質的に差配した日野厚の伝記。かつ、大正8年の創業から、日野が急逝する終戦直後までの、大倉陶園の展開も描く。大倉陶園は大倉孫兵衛・和親親子によって設立された。大倉父子はノリタケTOTOINAX日本碍子などといった、大規模窯業メーカーの創業者でもある。そういう点では、先に、同じ著者の『製陶王国をきずいた父と子:大倉孫兵衛と大倉和親』を読むべきだったと思った。
 大倉陶園は大倉父子による欧米高級陶磁企業を超える「美術陶器工場」を設立する企画によって始まり、初代支配人の日野厚が創業から戦後復興までを差配した状況。大田区の蒲田に従業員の福祉や花壇など美観に配慮された「田園都市的工場村」の建設したこと。さらには日野厚の生い立ちや教育者としての活動。昭和に入ってからの順調な発展と、昭和天皇を中心とする顧客の紹介。戦時中に奢侈品生産が規制される中、皇室御用達的な位置で高級陶磁器の生産を続けていたが、それもだんだんと苦しくなる状況。東京空襲で工場が焼け、敗戦によって社会が混乱する中、工場の再建など復興活動。しかし、日野厚を始め、創業以来の中核メンバーが次々と亡くなるところで終わっている。
 しかし、大倉陶園の設立者である大倉孫兵衛の商才はすごいな。書店を手始めに、洋紙問屋を設立。さらには森村組関連で陶磁器の輸出を手がけ、そこから生産輸出企業に展開。ディナーセット生産をめざした「日本陶器」(現ノリタケ)を設立。さらに衛生陶器を手がける東洋陶器、高圧電線用の碍子をつくる日本碍子、現在のINAXにつながる伊奈製陶といった現在に残る企業を次々と設立している。ここまで歩留まりのいい企業家も少ないんじゃね。大倉書店以外は、全部生き残っているわけで。
 大倉陶園は、大正末あたりから展覧会への出品や百貨店での展示会などでブランド価値を高め、昭和10年前後には、皇室や華族、財閥企業家などの上流階層から注文を受けるようになる。日本で高級食器の需要ってどのくらいあるのかと思っていたけど、客船やホテル、在外公館、満鉄などの鉄道会社など金持をもてなす必要のある組織の需要が多かったらしい。昭和天皇とその家族、兄弟が、盛んに大倉陶園製品を買っているのも、同社のブランド価値を高めるのに役立ったのだろうな。まあ、品質への評価とともに、国産代替と言った意識は、買う側にもあったんだろうな。昭和10年代になると、海外輸出も始まり、ブラジルなどが大使館用に買い求めているので、それだけの質はあったんだろうけど。
 戦時中の大倉陶園の活動も興味深い。昭和19年に至るまで、高級食器の生産を続けているが、このあたり皇室への納入を行っていた実績がものをいっているんだろう。しかし、昭和16年でも高級食器の需要があったり、昭和18年昭和天皇の娘の結婚用に3000点以上の食器セットの注文が入ったり、このあたり庶民の生活とはずいぶんかけ離れているって感じだな。まあ、日中戦争の初期あたりには、軍需で仕事が増えて、工員なんかもずいぶん贅沢していたそうではあるが。最終的には、軍用品生産の仕事に移っていっているようだ。戦災で、大倉陶園の資料は焼けているために、そのあたりの詳細は分からないだろうけど。
 日野厚の愛知県立陶器学校での教育やその教え子たちの紹介も興味深い。
製陶王国をきずいた父と子―大倉孫兵衛と大倉和親

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