G・ブルース・ネクト『銀むつクライシス:「カネを生む魚」の乱獲と壊れゆく海』

銀むつクライシス―「カネを生む魚」の乱獲と壊れゆく海

銀むつクライシス―「カネを生む魚」の乱獲と壊れゆく海

 先月のウナギや水産資源関係の記事で見かけて、借り出したのだが、元の記事が何だったのか思い出せない。
 銀むつことマゼランアイナメの乱獲と資源減少の問題を、オーストラリアの漁業取締船サザンサポーター号と密漁船ビアルサ1号の追跡劇を軸に、銀むつの水産市場への導入、白身魚の代替品から高級料理店の人気食材への市場の拡大、乱獲と資源の急速な減少、保護活動といった、銀むつ市場の歴史がカットインされる構成。読み終わって印象的なのは、世界の海の大半が乱獲が横行する無法状態であること、そして様々な国を利用して逃れようとする国際的密漁業者を摘発するのがいかに難しいか。南極近くの氷海まで踏み込み、地球を半周する大追跡のあげく、ビアルサ1号は無罪になってしまう。現場のリアリティと、それを法廷の場で証拠をもって立証するのの難しさ。しかしまあ、『魚のいない海』で取り上げられたオレンジラフィーもそうだが、深海でゆっくりとしか育たない種を商業ベースで獲って行ったら、あっというまに個体群が壊滅するわな。50年かけて育つような魚を、「持続可能」なペースで漁獲していたら、割に合わないだろうし。
 日本はアメリカに次ぐ第二位の消費国なのだそうだが、私は食べた記憶がないんだよなあ。外食産業で重宝される類の魚なのだろうか。銀むつの消費量を調べようとすると、2002年にワシントン条約で規制しようとしたときに、日本が反対した記事が出てくる。マグロの件といい、ウナギの件といい、日本は漁業資源保護の癌になっているような気がする… 後は総漁獲量の16%が密漁だという2009年の記事とか。


関連:
わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる: ボクらは魚を、待っている 「銀むつクライシス」
【社会】ワシントン条約 「銀ムツ」規制に日本反対
南極海周辺で銀ムツの密漁横行 総漁獲量の16%と民間団体
人間が変える海


 以下、メモ:

 スペインの漁船が大西洋を渡り、カナダ近海でタラ漁を開始したのは十五世紀。クリストファー・コロンブスの「アメリカ発見」よりも早かった。この時期に産業として成立した遠洋漁業は、ペレスの祖父がカナダのグランドバンクス(ニューファンドランド島沖の大陸棚にある広大な浅瀬で、世界三大漁場の一つだった』付近でトロール船に乗っていた一九五〇年代まで、スペインの漁民と家族の暮らしを支えていた。だが、ペレスが初めての漁に出た一九八三年には、世界に冠たる漁業大国スペインの命運はすでに暗転しはじめていた。漁業技術がかつてなく進歩したせいもあって、スペインの漁民たちは成功しすぎたのだ。タラの漁獲量が激減したのを受けて、カナダ政府は自国の漁民を保護するために二〇〇海里の漁業専管水域を宣言。ペレスはその後、一九八九年から九三年までアメリカのマサチューセッツ州の港町ニューベッドフォードに生活の拠点を置いた。アメリカの二〇〇海里水域内で漁ができる船に乗るためだ。しかし、タラをはじめとする大西洋の漁業資源はその後も減りつづけた。生計を立てるのが難しくなったペレスは、漁の合間にニューベッドフォードでタクシー運転手をして稼いだが、結局は一九九三年にリベイラへ戻った。
 当時二九歳、ペレスは崖っぷちに追い込まれていた。その数年前に結婚、双子の娘たちが三歳の誕生日を迎えたばかりだったが、天職と信じた漁師の仕事は消滅しかけていた。漁業の不振は、リベイラの港を眺めれば一目瞭然だった。ペレスが子供の頃、ここを拠点にするトロール船団の規模は三〇〇隻以上だったが、それがこの時期には四〇隻以下に減っていた。
 この窮地から脱出する方法は、まだ乱獲の対象になっていない南半球の海域に活路を見いだすしかないと、ペレスはすぐに悟った。一九九三年末、ペレスはチリ最南部の港湾都市プンタアレナスに乗り込み、最初のマゼランアイナメ漁に出発した。その後の一〇年間、ペレスは三〇回の出漁で漁獲量一万トン以上、一〇〇万匹以上のマゼランアイナメを獲りまくった。今回の出漁でもすでに九六トン、一〇〇万ドル相当を獲っている。この獲物をオーストラリア当局にむざむざ渡す気はないと、ペレスはカブレラにはっきりと伝えていた。p.36-7

 ビアルサ1号の漁労長の経歴。乱獲による資源の減少と、漁場から押し出された漁民が乱獲をさらに外に広げる状況を体現しているな。あと、何となく、なんだか日本をほうふつとさせるような歴史だなあと…

 チリ政府は一九九一年八月から九二年七月まで、「調査」の名目で外国の漁船に自国の海域内でのマゼランアイナメの捕獲を許可した。サルバドール。アジェンデ大統領の死後に権力を握った軍事政権には、ねらいが三つあった。マゼランアイナメの推定資源量を把握すること。人口が極端に少ない南部の経済活動を強化すること。それによってアルゼンチンとの間でしばしば領有権争いが起きていた地域に対する自国の主権を確実なものにすることだ。この政策は当初、いいアイデアに思えた。小さなチリの漁船は波の高い南部の海では操業できないため、マゼランアイナメの正確な生息数を誰も把握していなかった。それにチリ当局はわざわざ都市を建設したり道路を作ったりする手間をかけなくても、僻地の産業振興を図れるのだ。政府はただ、外国の漁船に操業許可を出すだけでよかった。
 ところがチリの官僚たちは、とんでもないミスを犯した。使用できる漁船を原則として一社につき一隻に限定したうえで、一一もの会社に捕獲許可を与えたことだ。これでは一部の大手水産会社に、この海域に豊かな漁場が広がっていることをわざわざ教えてやるようなものだ。しかもチリ当局には、この海域での漁船の操業を管理するどころか、監視する手段すらない。法を守る意識の薄い業者からみれば、チリ政府のやり方は捕獲を全面解禁したも同然だった。
 この時期、チリ沖の海域に姿を見せるようになった漁船は、ランツが一四年前にバルバライソ港で見た地元の船とはまったく違っていた。やって来たのはビアルサ号のような船――漁獲物の加工施設と巨大な冷凍室を船内に備え、地元の漁師には想像もできない量の魚を一気に捕獲する大型の工船だった。チリ当局の公式統計によれば、一九九二年に約一万二〇〇〇トンだったマゼランアイナメの漁獲量は、一年後には三万四〇〇〇トンに急増した。この数字に違法操業は含まれていないはずなので、おそらく実際の漁獲量はさらに多かったはずだ。やがてチリ政府は、歯止めのきかない乱獲の引き金を引いてしまったことが明らかになった。一九九四年、マゼランアイナメの漁獲量が激減したのだ。あわてて厳しい漁獲制限が導入されたが、もう手遅れだった。マゼランアイナメはチリの海域からほとんど姿を消し、違法漁船は資源量がまだ豊富で、漁獲制限のないアルゼンチンの海域へ移動していった。
 その後、事態はチリ以外の海域でも似たような展開をたどった。飢えた狼の群れのように、高性能漁船の船団――その多くは違法漁船の集団だった――はマゼランアイナメの生息海域に次から次へと押し寄せ、その海域を管理する国の政府が気付かない間に、貴重な漁業資源を丸ごと獲り尽くしていった。マゼランアイナメはまだ世界中で飛ぶように売れる魚ではなかったが、こうして基本的なパターンが確立された。消費市場で爆発的なブームが起こり、水産業者は大喜びで増加するニーズに応えるというパターンである。リー・ランツは本人も気づかないうちに、ある種の「ゴールドラッシュ」を生み出したのだ。実際、当時は水産業界の多くで先行きが暗くなっていたこともあり、マゼランアイナメは「白身の黄金」と呼ばれるようになった。
 この時期、南米の海にいち早く殺到した漁師の多くは、スペイン人で占められていた。アントニオ・ガルシア・ペレスも、そのうちの一人だった。p.60-2

 ものすごい勢いの略奪漁業だな… さらに発展途上国の資源保護能力のなさが、略奪を許したと。

 一般にマグロは見つけるのが難しい魚だ。たいていの魚は栄養分が豊富な沿岸付近に生息しているが、マグロは海洋のかなり深い部分をきわめて広範囲に回遊する。それでも、なかには見つけるのが比較的容易な種類もいる。たとえばキハダマグロは――理由はまったく不明だが――イルカと行動をともにすることが多い。哺乳類のイルカは呼吸をするために海面付近を泳ぎ、その下をキハダマグロが移動しているのだ。この現象は、とくに中米と南米北部の熱帯の海でよく見受けられる。そのため一九五〇年代にこの習性が知られるようになると、漁船はまずイルカを探し、見つかった場所に釣り針を降ろすようになった。だがメカジキの場合と同じように、技術の発展によって生れた新しい漁法が状況を一変させた。漁師たちは一九五〇年代後半から、イルカの群れの周囲に長さが一キロ以上ある網を張り。水深三〇メートル付近に降ろすようになった。そしてイルカを取り囲むように網を張ると、底の部分を一気に引き絞るのだ。この漁法は「巾着網漁」と呼ばれ、きわめて効率的に多くの魚を獲れることから、漁船団の規模は大きくなり、ヘリコプターや高速モーターボート、爆発物を使った漁が登場した。まず、ヘリがイルカの群れを探す。次にモーターボートが群れを追い回し、前方で乱暴に動き回りながら爆発物を水中に落とす。そして爆発でイルカ(及びキハダマグロ)の前進を止め、その間に母船が巨大な網を周囲に張るというやり方だ。
 その際、海中の網の一部を引き下げて、イルカが逃げられるようにすることはできる。だが、とくに夜間は逃げ道を作っても、イルカは逃げられないことが多く、そもそもこの作業をやらない漁船団もあった。こうして一九六〇年代末までに、毎年五〇万頭近いイルカが殺された。事態を重くみたアメリカ当局は一九七二年、キハダマグロ漁によるイルカの死亡率を下げるための法律を制定したが、それでもアメリカの漁船団は一九八〇年代に入っても、毎年最大二万頭のイルカを殺すことを認められていた。そしてこの時期までに、大半の大型漁船団のオーナーは規制がほとんどない、あるいはまったく存在しない国に漁船の船籍を変更した。当時、外国船籍の漁船は少なくとも毎年一〇万頭のイルカを殺していた。p.116-7

 すごい量だな。ざっと700万頭ほどが死んでいる計算になる。それだけ死んでも、まだ種が存続しているってことは、厖大な個体数なんだよな。この部分は、世論主導の漁獲制限の話だが、イルカやメカジキの運動が成功して、マゼランアイナメの運動が成功しなかったっつーのは、やはり外観とか、親しみやすさが重要なんだろうなと思わせる。ちょっちグロい深海魚の一生懸命になる人間はそれほど多くないと。あと、欧米人のイルカに対するファナティックさとか。

 ポーリーは同僚のビリー・クリステンセンと共同で独自の調査を行い、実際には漁業によって捕獲される海産食物は植物プランクトンの八パーセントを消費しているという結論を得た。さらに大陸棚の海域では、漁業によって捕獲される魚が二五‐三五パーセントの植物プランクトンを平らげていることもわかった。多くの植物プランクトンが魚類に捕食されない海底付近にいることを考えれば、この数字は最大限界値に近いと、二人は考えた。この研究はサイエンスと並ぶ二大科学誌の一つネイチャーに発表され、少なくとも専門家の間では大きな反響を呼んだ。その結果、人間がいくら水産物を獲っても巨大な海の資源が枯渇することはないというトーマス・ハクスリーの説は、大きく揺らぐことになった。p.235

 ポーリーは同僚のレグ・ワトソンとともに、さまざまな統計モデルを利用して中国の漁場を分析。同じ面積の他の海域に比べて漁獲量が二倍前後高いことに気づいた。さらに中国の数字を補正して世界の漁獲量を計算し直したところ、一九八八年にピークを迎え、その後は減少しつづけていることがわかったという。この時期、漁業の世界では新しい技術が次々に導入されている。最高の操業ポイントに寸分たがわず戻れるGPS.深い海での漁を用意にする最先端の漁具。海底付近にいるマゼランアイナメのような魚の生息地を特定するのに役立つ詳細な海底地形図……。それにもかかわらず、漁獲量は減少しているというのだ。p.236

 ポーリーは初めから目立っていたと、ライチャートは振り返る。一つには、海洋科学の世界には珍しい黒人だったこともある。だが、それ以上に印象的だったのは、他の研究者とアプローチがまるで違っていたことだ。他の学者たちはほぼ全員、長期間をかけてデータを集める精巧な調査を推奨した。だがポーリーは、「もうデータはいらない!」と断言した。「漁民たちがいつもサンプル調査をしているようなものじゃないか。つまり、北大西洋では一〇〇年以上前からデータ収集をやってきた。われわれに必要なのは、すでにあるデータを分析することだ」
 この会議の数カ月前、ポーリーはFAOの統計を用いた研究論文をサイエンス誌に発表し、漁民たちは以前に比べてずっと小さな魚を獲るようになっていると指摘した(その中にはポーリーが青空マーケットで見たキュウリウオのような小魚まで含まれていた)。マグロ、タラ、メカジキなど、これまで人気が高かった大型魚の減少によって、漁民たちが漁獲対象を変えたのは明らかであり、この動きは海の生態系にとり返しのつかない変化をもたらす--そう主張したポーリーは、この現象を「食物網における漁獲対象の低次化」と名づけ、いずれ人々は「クラゲのサンドイッチ」や「プランクトン・スープ」を食べるようになると冗談交じりに予言した。p.238

 漁獲量の減少と小型魚へのシフトは、日本だけではなく、世界でパラレルな現象なんだな。その中で、船別漁獲枠方式へといち早くパラダイムシフトできた国が利益を上げていると。そう言えば、植物プランクトンに関しては、食用への実験やってなかったっけ。ミドリムシの利用か。ポーリーの「プランクトン・スープ」はあまり冗談になっていないような気がする。