戸高一成『海戦からみた日清戦争』

海戦からみた日清戦争 (角川oneテーマ21)

海戦からみた日清戦争 (角川oneテーマ21)

 「近代化」のベンチマークとしての海軍組織。海軍組織の形成と独自ドクトリンの形成。あるいは、なぜ日清が最終的に戦争に至ったかの国際関係について。朝鮮琉球を巡る対立と互いの海軍力強化が、敵対関係を固定させてしまう状況が描かれる。実際、日清戦争という解決が、とりえた選択肢の中で最上のものだったかという点では疑問があるよなあ。北洋軍閥の壊滅と河北満州地域に出現した軍事的空白。それがロシアを呼びこんでしまったわけで。このあたりは、原田敬一『戦争の日本史19:日清戦争』で指摘されていたが。
 ハードとしての艦艇の整備が、財政問題もあって、なかなか進まなかった状況。その中で、人員の育成はそれなりに進展していたこと。山本権兵衛の海軍組織の整備。マハンの影響下に「制海権」ドクトリンが定式化されていった状況など。しかし、日清戦争に突入する寸前で、やっと単縦陣決まるとか、付け焼刃感が濃厚だよな。組織の整備の一方で機関科士官の処遇問題といった部分では、あとに引く問題が残された状況も。
 明治10年代後半を中心にフランスの水雷学派の影響のもと海防艦水雷艇による海軍軍備が志向されたこと。三景艦やベルタンの招聘なども、そのラインで行われたこと。装甲艦を中心とする考え方との対立。その間、日清戦争に臨んでは山本権兵衛防護巡洋艦を中心とする方針が中核となったことなど、ドクトリンを巡る問題も興味深い。
 あとは、三景艦の所を得なかった悲惨さとか。もともと横陣で定遠鎮遠と撃ち合うはずが、単縦陣になってしまえば、そもそも主砲を撃つ機会も無くなってしまうわな。後は、機関不調でそもそも訓練もままならない状況で、日清戦争に突入しているとか。

 ところが同じ軍令部編纂の『明治二十七・八年海戦史』でも、部内にのみ作成されて一般に発表されなかった「秘」版によると「前七時五十二分第一遊撃隊敵艦済遠及廣乙に対して発砲し、敵も亦之に応ず」とあり(『秘二十七・八年海戦史 巻一 戦紀第一編 朝鮮役』)、また「浪速」艦長であった東郷平八郎の日記においても「午前七時二十分豊島沖に於て遥に清国軍艦済遠号、広乙号を認む。直に戦闘を命ず。同七時五十五分開戦、五分余にして砲煙の掩う処となりしを以て間々敵艦を見て砲撃をなす」と記されている。p.177

 この手の部外秘の公式戦史って、どの程度存在するのだろうか。