宇田川武久『幕末 もう一つの鉄砲伝来』

幕末  もう一つの鉄砲伝来 (平凡社新書)

幕末 もう一つの鉄砲伝来 (平凡社新書)

 幕末期に一気に西洋式の軍制が導入されたわけではなく、和流の砲術家が最末期まで併存していた状況を、土浦藩砲術家関家の史料をもとに明らかにしている。関家の展開と歴史の展開を絡めながらストーリーが展開する。
 高島秋帆1830年代にヨーロッパ式の砲術を導入して西洋流を創始しているが、幕末の押し詰まった時期まで併存しつづけたこと。19世紀に入ってからのヨーロッパ船の頻繁な来訪に伴う「海防」意識の拡大とロシアの進出による防備拡充では、基本的に和流の砲術家の流儀で行われた。この状況で、関家にも入門者が増え、繁盛する。ペリーの来航は、砲術の習得熱を起こし、関家の門弟はむしろ激増している。この時の門弟は、土浦藩の麻布下屋敷近辺の諸藩の藩士だったという。かなりの後まで、和流と西洋流の砲術は併存していたこと。しかし、幕末の政治情勢の緊迫化の中で、ヨーロッパ式の軍制が取り入れられ、徐々に和流の砲術は存在基盤を失っていく状況。特に幕政改革による諸藩の藩士の地元への移動に伴って関家も土浦に移転すると門弟が激減し、存続が難しくなっていく。また、火縄銃の雷管式への改造や砲架への洋式の導入などのキャッチアップの動き。最後は西洋式の軍制に圧迫され関家の当主も西洋流の流派に入門して西洋流を導入する。さらには、明治時代に入り、古流武芸の廃止や銃砲の政府管理の動きのなかで、「砲術家」という存在そのものが消滅していく。
 また、各藩で行われた和流から西洋流への砲術の転換は、和流の砲術家を中心とする相当な抵抗をうけた状況や、銃を使う側も洋式銃の導入や軍制のヨーロッパ化に戸惑い、高齢者を中心に和流のままで過ごそうとする意識なども興味深い。身体に染みついた動きを変えていくことの大変さ。歴史のすっぱりとは切れない変化の仕方。
 和流砲術家の「家業」の経営の方法。藩士として藩につかえながらも、砲術は各藩の門弟などへの砲術の教授の謝礼などによって私的に維持されてきた状況。銃砲の製作体制。また、関家の土浦藩士としての活動も紹介される。幹部として大阪商人との借金の交渉を行ったり(六代目)、ロシア船が大阪湾に侵入した時には大阪城代の配下として軍勢の指揮を行っている(七代目)。


 高島秋帆1830年代前半にヨーロッパ式の砲術や戦術を研究して、高島流の砲術を形成している。しかし、この時期のヨーロッパの銃砲や戦術が、和流と比べて圧倒的に強かったかと言うと、疑問。この時期だと、まだ鉄砲も大砲も前装滑腔式だし、戦術も密集歩兵が近距離で撃ち合う形式だろうから、火縄銃でも十分対抗できたのではなかろうか。Wikipediaゲベール銃の項目では命中精度が火縄銃に劣ったとも書かれているし。
 旧来の和流を圧倒するのは、1850年代以降と考えていいだろう。この時期以降に、旋条式の銃砲がヨーロッパに普及する。ライフリングを切るというのが、キーだったのではなかろうか。前装旋条のミニエー銃の開発が1849年、幕末期から西南戦争あたりまでの主力砲であった四斤山砲の開発が1859年。後装旋条式のドライゼ銃は1836年と異様に早い時期に開発されているけど、これも実戦の経験は1848年頃、威力がわかったのは1864年のシュレスビヒ=ホルシュタイン戦争。この時期にはヨーロッパ式をキャッチアップしないと一方的にやられるだけだったろうと思われる。なにより命中率が違うわけで。戊辰戦争から西南戦争にかけての時期に、ごちゃごちゃと新式の銃が開発普及していた状況だから、買う側の日本人もどれがいいか選ぶのに苦労したのではないだろうか。
 ある意味ではちょうど差が開き始めた時だったからこそ、日本は追いつくことができたということができそう。


関連:
ミニエー銃
ドライゼ銃
スペンサー銃
四斤山砲
ライット・システム(以上、Wikipedia


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