安藤優一郎『世田谷代官が見た幕末の江戸:日記が語るもう一つの維新』

 井伊家の江戸滞在賄料として、彦根藩領となっていた世田谷領を治めた代官、大場家の幕末期の日記から、幕末の世相を紹介する。主に、12代目の与一の妻美佐の日記をメインに、与一とその跡を継いだ養子弘之助の日記で補う。
 井伊家が、この世田谷領から、細々とした物や労働力を大量に得ていたこと。まあ、もともとそういう目的で設定された領地だろう。このあたりは、江戸に蔬菜などを供給して、現金収入が多かった地域だと思うが、そういう地域経済の中で、年貢や労役の負担はどの程度のものだったのだろうか。年貢の基準となる石高は、かなり低めに押さえられているように見えるが。
 あと、大場家の系譜も興味深いな。直系の男子はあんまりいなくて、親族などからの婿養子や養子が継いでいる事例が多い。また、おおよそ同じ階層に属する地域の村役人クラスか、番方の与力か、という婚姻関係の選択も興味深い。
 あるいは大場家の経営。収入のかなりの部分を金利収入が占める。農村金融の占める大きさ。これに、小作料や農産物の売却益がメイン。一方で、支出では、衣服などの「身分費用」がかなり大きい。で、大場家クラスの家が、たくさんあるんだよな。


 メインは幕末の政情を、下級の武士である大場家の家族がどのように見て、どのように影響を受けたか。
 井伊直弼暗殺で、情報が飛び交う様や葬儀のための人足の要求。報復のために水戸家を攻撃しようとする動きと、そのための輸送人員の要求。
 対外、対内的な軍事的緊張に伴う人足の要求。台場の警備のため、長州戦争のために、輸送の人員を出す。あるいは、「農兵」として、銃の稽古など、軍事的な動員。実際、武州世直し一揆の際には、防衛準備を行うし、一揆勢の撃退は他の土地の農兵が行っている。
 軍事情勢の緊迫にともなって、井伊家からの労役負担の要求は増大し、地域と井伊家の板ばさみになった世田谷代官は苦しむことになる。
 財政的にも、村役人クラスの人々からの献金で、軍事費や普請費をまかなう。地域への依存は大きかった。とくに、近場の世田谷領は細々と要求をうけて大変だったろうな。一方で、一方で、献金を受けた井伊家は、名字帯刀を許すなどの「ステータス」を反対給付として行う。身分制を利用した金策


 明治維新によって、藩は消滅し、大場家も代官の地位を失うが、地域行政の経験を買われて、戸長や村長などの公職につき、地方議会の議員を務めるなど、政治家となっていく。現在の大場家は、どういう位置にあるのだろうな。大場家の屋敷や史料は、「財団法人大場代官屋敷保存会」によって維持されているそうだが。

 イギリスとの開戦危機を受け、江戸に屋敷を持つ諸大名も対応を迫られる。尾張藩徳川茂徳などは、江戸屋敷内の婦女子に対して帰国を命じた。本来ならば東海道を経由して国元の名古屋に向かうところだったが、東海道沿岸を通るとイギリス軍艦による砲撃の危険性があるため、中山道経由で帰国させたほどだ。p.80-1

 こういう経験があるから、内陸の幹線鉄道建設の要求が強くなるわけだ。