深谷幸治『織田信長と戦国の村:天下統一のための近江支配』

 信長政権が、どのように村落共同体と向かい合ったのかという話。メインの史料は、一向一揆に参加しないことを野洲郡と栗太郡の村落の代表者に誓わせた元亀の起請文と野洲郡の安治村に残された信長時代の村落史料。後者は、織田・豊臣時代の文書が突出して残っているというのが、興味深い。なぜ、そういう史料の残り方をしたのかは不明なのだそうだが。
 基本的には、信長政権は、村落共同体と直接対峙したり、既存の重層的な権益をいじらず、そのまま上に乗っかったという感じかな。村落に居住する「侍分」を窓口に、収益だけを確保した感じ。村落間の争論も、代官レベルで捌いていた感じだな。著者の感じ方は、違うようだが。
 豊臣政権や徳川政権でも、村役人という窓口を使っていたわけではあるが…


 全体はおおよそ三分割。
 序章は、おおよそ用語のお話。正直、辞書を持ち出して用語の定義の話をされてもという感じが。歴史の土俵でそういう話をするなら、もう少し、具体的な話をして欲しいところ。


 前半は、信長政権の近江支配の展開を紹介。
 足利義昭の京都復帰を支援して、京都へ展開。その途上で、敵対した六角氏を倒し、近江南部六郡を支配下に入れる。京都と岐阜をつなぐ回廊として重要な意味を持つ地域となる。
 1568年5月から、有力部将を配置する分郡配置までの1年8ヶ月ほどの期間が第一期。情報はあまり残っていないが、指出を提出させ税負担を確定したり、国衆を被官化するなど。
 第二段階は、対浅井朝倉戦争に始まる「元亀の争乱」の時期に、有力部将を各郡に配置して、南近江回廊を防護させた時期。滋賀郡が森可成明智光秀、栗太・野洲郡が佐久間盛信、蒲生・甲賀郡柴田勝家、神崎郡が中川重政犬上郡丹羽長秀坂田郡が木下秀吉という配置になる。本書では、「軍事・行政管轄責任者、織田政権下行政諸業務代官、郡内知行地保持者といった複数の性格を同時に持つ武将ら」(p.55)と整理しているが、与えられている行政権限は非常に弱いように見える。村落間の争論に関して、裁定を信長が行うので帰陣まで待てと書状を出しているあたり、行政権限はほとんどないんじゃなかろうか。むしろ、京・岐阜間通路の防衛と郡内治安維持をメインとした軍事指揮官としての側面が強いように感じる。それに必要とするかぎりで、行政権限が与えられ、知行地の配分が行えたとも、解釈できるのではなかろうか。
 第三段階は、柴田勝家の越前転出と佐久間信盛の改易と安土城建設に伴う近江直領化。側近の小姓衆である長谷川秀一と野々村正成が代官として差配。村落に居住する「侍分」や寺院などの地域有力者を「下代」として利用。手っ取り早く支配を浸透させていった、と。


 後半は、史料から明らかになる村落社会の姿。
 元亀の起請文からは、名字・官途名乗り、花押といった武士性をうかがわせる署判を行っている人間と、それを欠く人間の、二層の代表者が存在すること。また、署判を行った総代が複数の村落で同職を務めていたり、複数の村落が連合して起請文を作成する、遠く離れた村落を同じ人間が代表している、など様々なネットワークのあり方が浮かび上がる。
 安治村の村落文書からは、特定の土地に関する権益が重複している姿。信長の支配権も、他の知行者と横並びに過ぎない。この場合、惣村側で賦課を割り付けて、それぞれに納付していたのではなかろうか。著者は、代官が一括して納付を受けた後、そこから分配したと推測しているが、それこそ紛争の元としか思えないのだが。
 また、村内では賦課や内部の費用を割り付けて分担して負担する村内ルールの制定の機能があったこと。惣借りの際には、侍分が保証と一部の負担を行うように、「侍分」は村落共同体と利害を共にしつつ、完全に一体ではない姿が紹介される。


 ラストの佐久間の改易や明智の謀反が、信長の近江領国化構想と関係しているのではないかという指摘はおもしろいなあ。どちらも、畿内を管轄していて、一国レベルで一職支配地を与えるのが難しかった。邪魔者になりつつあった、か。


 信長の近江支配に関しては、現在も脇田修の『織豊政権の分析 1、2』が基本的な先行研究と。