磯田道史『天災から日本史を読みなおす:先人に学ぶ防災』

 朝日新聞の土曜版に連載されていたコラムをまとめた本。掲載時にかなり読んでいたはずなのに、結構忘れているなあ。宝永地震関係とか、高潮の話は覚えているけど、一書にまとまるとまた印象が違う。
 第一章が16世紀末、秀吉の時代に起こった2つの地震とその影響。第二章は南海トラフで発生した宝永地震とその影響と思われる富士山噴火について。三章は土砂崩れや高潮災害の記録。第四章は19世紀前半に起きた台風や地震など。第五章は著者の親族が経験した昭和南地震津波の話。四国はすぐに津波が来るから怖い。第六章は東日本大震災からの教訓。全六章で、歴史的な災害の教訓を、さまざまな角度から語っている。20年来、災害に関連した古文書に遭遇してきたら、コピーしてきたそうで、地道な積み重ねの成果が。
 いろいろと、細かいところで興味深いな。地震などの災害が政治史に与えた影響。家康と秀吉の争いは、家康不利に展開していて、次の侵攻では危険な状態にあった。それが、天正地震によって侵攻準備が頓挫。これによって、家康は生き延びることができた。あるいは、幕末のスチームパンク国家佐賀藩の藩主鍋島直正の登場には、シーボルト台風によって佐賀平野が甚大な高潮被害を受けたこと。これによって藩政改革が不可避になり、浪費癖のある先代藩主が隠居させられたこと。意外と影響が大きい。ただ、伏見地震が秀吉政権崩壊の引き金というのは、ちょっと言い過ぎのような。
 宝永地震と富士山噴火のエピソードが印象的。秋田藩重臣岡本元朝が経験した江戸屋敷での富士山噴火の状況。現在と違って、災害の情報が手元に届くのにタイムラグが大きいのが興味深い。そして、高知の武士の一家が経験した津波災害の悲劇を描く「柏井氏難行録」に描かれる悲劇。子供を投げ捨てちゃうんか。大阪の津波被害の話も。タンカーが座礁したりしたら、シャレにならないよなあ。
 第三章は比較的身近な災害といって良い、土砂崩れや高潮災害について。熊本だと、最近でも、松合の高潮被害なんかが印象に残る。静岡県袋井市周辺を襲った高潮の被害もおそろしい。大地震津波と変わらないレベルの惨事。溺れそうになったので子供を突き流したエピソードや、復旧工事で藩が吹っ飛んだ話とか。安倍晴明津波を封じたと言う晴明塚とか。
 第四章も高潮被害がメイン。幕末に北部九州を襲ったシーボルト台風で、佐賀平野は壊滅的な高潮被害を被ったと。佐賀城下町まで浸水しているってすごいな。有明海では、コース次第で、かなり大規模な高潮が起きうるわけか。あるいは、1854年の一連の地震で、甲賀忍者が残した文書から、溜め池の堤が土砂災害を引き起こす可能性を指摘。溜め池の決壊は、東日本大震災でも起きているな。阪神大震災では溜め池ではないが、巨大な土砂災害で被害を出している。地震+土砂災害は本当に怖い。
 昭和南地震津波の体験談や東日本大震災の状況から防潮林の植生をどうするかとか、堆積物から被災範囲を見るとか、一瞬の判断の重要さとか。このあたりは、時代が新しいだけに、衝撃度も高いな。


 以下、メモ:

 一度、富士山が噴火すれば、我々は半月間、火山灰の闇を覚悟せねばならない。大量の空気が要るガスタービン式の火力発電所の電力をどのように安定供給するのかなど、金五郎の話は我々に重い課題を突き付けている。p.41

 あー、確かにガスタービンはやばいな。ターブンブレードに火山灰がこびりついて、全部停止とかありそう。自動車のエンジンも大丈夫かね。

 しかし、住宅をもう建ててしまったところもある。どうすればいいか。明るいうちに早めに安全そうな場所に避難するのが一番だ。土砂崩れには、しばしば前兆がある。ここが肝心なところだ。地鳴りや異臭を察知しなくてはいけない。察知したら、逃げる。逃げられない場合は生存率の高い二階にあがったほうがいい。神津島では、この時、神社のほうから「坂は照る照る東は曇る。やがて此の地は水となる」という不思議な「声」が聞こえてきたとの伝承がある。これは地すべりの前兆音、地鳴りの一種であったといわれている。p.88-9

 そうは言っても、「明るいうち」に避難するのが難しい。危険を感じた頃には、どこにも逃げ場がないみたいな事態は、最近の土砂災害でも多い。機械的に、どの程度降ったら危険と判断する方向がいいんじゃないだろうか。タイムライン的な。

 佐賀藩は大失態である。当時の藩主・鍋島斉直は幕府から一〇〇日の謹慎処分をくらい、天下に大恥をかかされた。ここにいたって、佐賀藩では、いかにして西洋軍艦に立ち向かうかが真剣に議論されはじめた。幕末維新期の情報史に詳しい明海大学の岩下哲典教授によると、佐賀藩では「捨て足軽」という恐ろしい作戦が検討されていたという。足軽の胴体に火薬をつけ、敵の外国船に乗り込んで自爆する。現在でも、西洋の軍事力に自爆攻撃を仕掛ける悲しい出来事がたえないが、人類史上はじめて、これを計画したのは、佐賀藩であったろう。p.118-9

 ひえー
 幕末の時点で特攻作戦は立案されていたのか。恐ろしい。人間水雷だな。この時代、棒の先に爆薬をつけて攻撃する水雷兵器が出現し始めた頃だけど、人間につけて乗り込ませれば、ダメージを与える確率は上がる。上がるけどさ…

 この津波を生き残った牟岐町の中山清さんから、話をうかがううち、私は、人命にかかわる重大な教訓を得た。それは「津波の時は、なるべく川や橋に近づくな」ということだ。牟岐で死者が集中したのは町の東側であった。ここは高台の海蔵寺が二八〇メートルと遠い。住民は日の出橋という橋を渡って一五〇メートルほど先の手近な高台「妙見さん」の祠に逃げようとした。
 ところが、河川をつたう津波は足が早い。河口部ではしばしば時速三〇キロ=秒速八・三メートルを超え、陸上の二〜三倍の速さで襲ってくる。川を渡って逃げようにも逃げきれず、川を高速でさかのぼる津波にさらわれる人も出たようだ。比較的、よく助かったのは、川に近づかず、「潮に追いかけられながら海蔵寺へ逃げていった」人たちであった。p.169

 これは、常識的な話だよなあ。