釜井俊孝『宅地の防災学:都市と斜面の近現代』

宅地の防災学: 都市と斜面の近現代 (学術選書)

宅地の防災学: 都市と斜面の近現代 (学術選書)

 なんか、図書館から借りた本の処理が滞っている。つーか、他の読書ノートも2ヵ月分くらい塩漬けになってるような…


 図書館から借りてる本も、これがラスト。とにかく、片付かない。
 近代に入ってからの、都市周縁部における地盤災害の歴史を追ったもの。読むのがつらい。要は、近代日本の失政と不公正を示したものとしか言いようがない。危険な土地を売りつけ、末端の土地購入者が一方的に被害を受ける。情報格差を利用して、一方的に搾取する構造が現れている。もちろん、土地という高価な物を買う以上、リスク情報の精査を行わなければならないのは確かだけど、どう見ても、見合わないリスクを背負わされている感があるなあ。
 あと、日本では、こういう地盤災害がスプロール的拡大のリスクになっているけど、アメリカやオーストラリアでは山火事や海岸線の崩落が、同様のリスクになっているように思える。そういう点で、災害の地域性というのは結構大きいのだろう。
 あと、1970年代から90年代前半というのは、例外的に地震にしろ、水害にしろ、災害が少ない時代だったんだなあ。
 参照文献も興味深いが、今回はちょっとそこまで行き届かない。これは買うしかないかな。


 第一章は戦前。横浜・横須賀・神戸・呉・北九州・長崎あたりが先駆的に崖地も都市化する一方、東京では、関東大震災あたりから郊外丘陵地への宅地の進出が本格化する。田園都市や大学都市といった形で高級郊外住宅地の開発が行われ、幾何学的な街路を創出するために、谷埋め盛り土地が造成されるようになる。これらの盛土地は、排水が悪く、「高級住宅街」といった感覚に似合わないリスクがある。
 戦前の地盤災害としては、関東大震災にともなう横浜・横須賀の地盤災害、1938年の阪神大水害が紹介される。ある意味、現代に問題になっていることは、とうの昔に問題になっているのだな。つーか、500ミリ降ると、無事なところはどこもないんだなあ。
ja.wikipedia.org
www-1.kkr.mlit.go.jp
www.city.kobe.lg.jp
bosailiteracy.org
blog.goo.ne.jp


 第二章以降は、戦後。
 アメリカの占領政策の影響を受けて、持ち家政策がメインとなった。戦前には借家がめいんであったのが、戦後は新築住宅の販売へと傾斜していく。
 アメリカの持ち家政策には、反共産主義的な思考が大きな背景をなしているが、日本の場合はどうだったのだろうか。どちらにしろ、占領軍の住宅整備が優先され、日本人の住宅政策は等閑視された。また、ヨーロッパでは公営住宅の整備が福祉の一環として推進されたが、日本では、かなり小規模かつスタートも遅かった。とはいえ、大規模に整備された公営住宅が、ヨーロッパの階級差別と貧富の地域コントラストを作ってしまった側面を考えると、良し悪しという感じはあるなあ。
 また、高度成長期にかけて、経済的に無価値化した里山と住宅地供給の必要性が結合し、郊外の里山地域で大規模な谷埋め盛土による新興住宅地の開発が行われた。ブルドーザーによる機械化もあって、大規模なものになる。ディベロッパーとハウスメーカーの発展。
 一方で、首都圏では崖崩れ被害が多発する。多摩丘陵、湘南、三浦半島、それぞれ、崖崩れを起こしやすい地質的要因が存在する。それとともに、地下水の挙動の研究が進む。


 1970年代、オイルショックと景気減速の時代には、谷埋め盛土地の地盤災害が始まるが、正常化バイアスで無視され続けた。1968年十勝沖地震の剣吉中学校の地すべりの犠牲者、1978年宮城県沖地震における谷埋め盛土の災害、1982年の長崎水害、1985年地附山地すべりなどが紹介される。
 そして、バブル期の地価狂乱とその後の長期衰退。「パワービルダー」の出現。


 第二部は、20世紀の都市政策で作られた、脆弱な谷埋め盛土地が、90年代後半以降の巨大災害によって、脆弱性を露わにしていく過程。
 6-7章は、阪神大震災以降の大規模地震による地盤災害について。1995年の阪神大震災は中心部の建造物倒壊と火災が印象に残るが、六甲山麓では住宅地の地すべり被害も大きかった。品質の悪い盛土と排水施設の老朽化による地下水の蓄積は、共通する要因、と。
 2004年中越地震における長岡市高町団地の地盤被害、2007年中越沖地震の柏崎の宅地被害、2003年三陸地震と2008年岩手・宮城内陸地震で繰り返された築館町の地すべり。
 2011年東日本大震災における宮城県を中心とした盛土の崩壊、特に仙台では、1978年宮城県沖地震と同じ場所で地すべりが繰り返されている。また、地すべり対策の限界や規制の有効性の問題が明らかにされた。
 2016年の熊本地震での益城町の生活盛土の崩壊、2018年大阪北部地震における上町大地の崖際盛土と老朽化した擁壁というリスクがあるにもかかわらず、行政が大規模盛土は存在しないと無視宣言してしまった問題。そして、同年の胆振東部地震の札幌の地すべりの対策の不公平性やディベロッパーの嘘と売り逃げの問題など。
 いや、本当に問題だらけだなあ。


 また、水害も21世紀に入って激しさを増している。1999年と2014年の広島市域の土砂災害。2014年の安佐南区の被害は印象に新しいが、1999年にもあったのか。八木三丁目の土石流地では、1961年の航空写真で、新鮮な土石流堆積物があり、公営住宅が谷底部を避けているのに、その危険性が忘れ去られているというのが衝撃的。
 さらに、2000年東海豪雨、2006年福井、2010年呉の盛土崩壊災害。2017年奈良県三郷町で擁壁が崩れ、近鉄の線路を塞いでしまった事件での、擁壁変形の危険度。2018年西日本豪雨における危険地域・避難勧告にもかかわらず逃げない住民の問題など。


 そして、第九章では、新たな地盤災害のもととなりうる、建設残土廃棄の問題。関西圏や横浜などで、行き場のない建設残土が、住宅地のそばに不法に投棄され、死者や住宅被害を出している。今後、さらに大きな問題になりかねない。
 現在は「資源」としてゆるい規制しかかかっていないが、産業廃棄物として、排出者も責任を持つ体制の構築の必要性が指摘されている。
 つーか、2018年に横浜市緑区白山で起った建築残土の崩落では、対策を怠った残土積み上げが原因で死者が出ているのにもかかわらず、検察が不起訴処分にしている。ここいら、もう、警察検察が共犯者というか、林業とか、土建には、警察甘いよなというか…


 そもそも、日本で不動産市場、特に中古建築物の市場が機能していない。品質保証システムが欠如しているのが問題だよなあ。そして、今後、南海トラフや首都圏で発生しうる自身の問題。専門家の体制の構築と使う側の国民の知識強化が必要、と。


 以下、メモ:

また、この頃、各都市銀行の子会社として、住宅金融専門会社、すなわち住専が相次いで設立され、母体行の基準では融資できないような案件に、高利で貸し付ける商売を始めた。こうして、一九七〇年代の初めには、デベロッパー、長銀、中小金融機関、住専といった後のバブルの主役たちが顔をそろえることになる、p.85-6

 サブプライムローンみたいなのは、不動産バブルが発生する場所では、どこでも出現するんだな。信用度が低すぎる相手に、住宅金融を貸し込む。そして、景気後退で破綻。

 同様な災害のパターンは、それまでも丘陵の斜面では繰り返されていたが、研究者が一連の過程を目にする機会はあまりなかった。その意味で、この事故は貴重な事例でもあり、研究者達は土砂移動に関する新たな知見を得ることができた。特に、崖際の盛土(捨土)の危険性を強調できる事例として、重要である。しかし、それと同時に、この事故は、後の斜面災害の研究に負の影響を与えた。すなわち、平泉渉科学技術庁長官は更迭、崩壊の現地実験はその後行われなくなり、主要な参加機関の一つであった地質調査所では、斜面災害の研究グループが消滅した。事故の衝撃はそれほど大きかったと言える。p.109

 生田緑地の崩壊実験の事故の話。臭い物に蓋をする姿勢が、後々の研究に悪影響を与えてしまった。つーか、危険だからこそ、研究の必要があるだろうに…

 三陸沖では、過去にもマグニチュード八クラス巨大地震マグニチュード七クラスの比較的大きな地震が繰り返し発生している。後者の代表例が、一九八七年宮城県沖地震である。前者の巨大地震では、今回同様に巨大津波が襲来する事が知られており、三陸沿岸ではこれを警告する多くの津波記念碑が立てられている。特に、八六九年(貞観一一年)の地震による被害が大きく、平安時代の歴史書である『日本三代実録』には、津波陸奥国国府多賀城に達し、一〇〇〇人を越す溺死者を出したと記録されている。多賀城近くにあった「末の松山」にちなんで詠まれた、「末の松山、波こさじとは(津波が来ても末の松山は越えなかった様に)」の歌は、この状況を表している。三代実録の記述とこの清原元輔の歌は、歴史学者の間では有名で、それを裏付ける堆積物も地質学者が発見していた。つまり、津波が仙台平野内陸部深く遡上した出来事は、彼らの間では良く知られた事実であった。しかし、これは、あくまで特殊な場合として捉えられ、同じことが再び起る可能性は、沿岸部の都市計画や原発の安全対策において、真剣に考慮されなかった。この構図は、谷埋め盛土地すべりの場合とよく似ている。p.200

 工学分野における正常化バイアス。ノースリッジ地震の時の「日本は耐震基準が進んでいるので、こんなことは日本では起こりえない。」発言なんかもそうだよなあ。自分が被害を受けるまで、我がこととして捉えられないことが多い。
 で、手遅れで多くの被害者を出す。