平山昇『鉄道が変えた寺社参詣:初詣は鉄道とともに生まれ育った』

 うーむ、なんでか六日もかけてしまった。なんか、最近新書の読破能力が落ちまくり。
 題名の如くの内容の本。鉄道網の整備、鉄道会社同士の競争が、明治半ばから昭和初年の人々の寺社参詣にどのような影響を与えたのかを追及している。新聞記事や広告、西宮神社の日誌などを素材に、初詣がどのように出現して、普及していったかを明らかにしている。都市近郊の私鉄網が形成されていく、20世紀に入ってからが主。早い時期としては、東海道線沿線に位置した川崎大師が1880年代あたり。
 本来江戸の人々は年始には恵方参りや縁日の参詣を行っていて、初詣という言葉は歳時記などでは見られなかったこと。方位やどこに参るかといった縛りの少ない「初詣」という言葉は、鉄道会社が元日の参詣客を誘引するために、顧客争奪のなかから形成していったと指摘される。
 第二章から第三章は、国鉄と私鉄の顧客争奪戦のなかから、今でも多くの初詣客を集める著名寺社が出現してくる状況を川崎大師、成田山伊勢神宮などを事例に明らかにする。「初詣」と言うものが、鉄道と不即不離に発展してきた状況。また、本来恵方参りとして、5年サイクルで方向を変えていたものが、毎年乗客を集めようとする宣伝合戦のなかでかき消されてしまう状況。また、鉄道の早朝運転から、競争の過程で発車時刻が早まり、終夜運転となり、大晦日のうちに寺社へ行く二年参りの行動が一般化していく状況も跡付けられる。江戸東京の商家が、大晦日を決済日とするため、深夜まで忙しく、二年参りの需要はなかったこと。それが、近代化によってホワイトカラーなどの新中間層が形成され、初詣の行動が変わっていくという、社会階層や民俗的な変動が興味深い。
 第五章は西宮神社十日戎新暦の導入によって、新暦・旧暦、さらに明治末の旧暦併記の廃止に伴う二月十日戎と分裂するなかで、神社と鉄道会社の集客をめぐる利害の一致点、対立点を明らかにする。イベントプロデューサーとしての阪神電鉄。都市部の遊山的な参詣者と農漁村の旧来からのえびす信者の行動の違い。二月十日戎や九日の閉籠をめぐる、鉄道会社と神社側の利害の対立。あくまで乗客を増やすことを意図する鉄道会社側と、伝統的な祭事を維持しようとする神社の立場の違いも興味深い。
 問題を絞っただけに話はシャープにできているし、おもしろい。その分、話の広がりには欠けるような気がする。民衆信仰から、あるいは社会階層の変動と言う観点などアングルを変えればまた、見え方は変わってくるだろうな。また、鉄道と寺社参詣と言う観点でも、一年に一度の初詣だけでなく、通年での交通需要づくりのために鉄道会社がどう取り組んだかとか、それが郊外住宅地の開発やテーマパークとどう関連するか。あるいは、都市近郊より広域でのツーリズムとか、問題の広げる先はいくらでもありそう。


 以下、メモ:

 そして、恵方詣の末路と対照的だったのが初詣だった。第1章でみたように、初詣は“正月にどこかにお参りする”という以外には特に中身がない曖昧な言葉であり、その曖昧さゆえに鉄道会社はこれを毎年の宣伝に活用するようになった。まさに「ことばに意味が乏しいことは、人がそれを使わない理由になるよりも、ある場合にはかえって、使う理由になる」(柳父章)という名言どおりである。さらに、それに反応して大勢の人々が恵方にこだわらずに郊外の有名寺社に詰めかけるようになっていくなかで、言葉の上だけではなく実体としても初詣が正月を代表する参詣行事として定着していくことになったのである。
 余談ではあるが、現在では年末が近づくと「初詣はどこにお参りすべき?」「初詣の正しい知識」などといった新聞・雑誌記事やネット情報が数多く出回る。なかには“初詣は氏神様にお参りするのが正しい”などとまことしやかに説く専門家(を称する人々)も少なくない。しかし、繰り返しになるが、初詣はもともと恵方だの初縁日だのといった細かいことにこだわらずにお詣りするという、きわめてアバウトな行事として成立し、そのアバウトさに利用価値を見いだした鉄道会社のPRによって社会に定着していったものなのである。それにもかかわらず、誕生からわずか100年あまりで、あたかも「初詣の正しい伝統」などといったものが古来からあるかのように説明する語り口が定着しているわけである(実はそのような語り口は昭和に入って流布しはじめたものである。これについては別書で論じる予定)。初詣の近代史を研究してきた筆者は、「『伝統』というものは、ずいぶんインスタントに定着するものなのだなぁ」という感想を抱いてしまう。p.129-130

 曖昧な概念ほど、広く流布させやすいか。そうかもなあ。あとは、「伝統」がインスタントにできる過程とか。まさに「ブリコラージュ」ってやつなんだろうな。在来の素材をもっともらしく組み合わせると。

 それはさておき、ここで注目したいのは傍線をつけた箇所である。「初詣のための終夜運転」という現代の我々の感覚とは異なり、「市内商家の便宜を計」つための終夜運転だったことがわかる。
 実は、当時は大晦日といえば多くの商売人にとって節季払い(盆、暮れに決済をする慣行』などで繁忙をきわめる一日であり、それどころか元旦未明まで仕事がずれ込むことすら珍しくなかった。市内の電車・鉄道路線終夜運転はそのような人々のための措置だった。我々現代人が紅白歌合戦を見たあと除夜の鐘を聞きながら終夜運転の電車に乗って初詣に赴くといったようなノンビリとしたものではなかったわけである。p.134

 そう言えば、昔はつけばらも多かったから、どこも忙しかったのだろうな。

 前年と同様に西宮神社側は阪神電車に旧暦十日戎の広告について打ち合わせておいたはずだったのだが、あろうことか担当者は停留所の掲示や新聞広告の掲載を「失念」してしまっていたというのである。旧暦十日戎が大いに賑わっていた明治42(1909)年以前であればおよそあり得ないことだった。旧暦十日戎阪神電車側にとってもはやどうでもいいものになりつつあったのである。p.203

 神社側の要請によりなんとか広告は廃止を免れ、その後も継続されることになった。しかし、やはり目立った成果をおさめることはなかった。さすがの神社関係者も次第にあきらめ気味となり、「時勢ノ傾向ニ依ルカ年一年減少ス」(『日誌』大正10年2月17日〔旧正月10日〕)、「年々衰微ニ向ヘルハ已ムヲ得ズ」(同昭和6年2月26日〔旧正月10日〕)といった慨嘆が繰り返し記されるようになる。阪神電車の新聞広告もついに昭和5(1930)年で打ち切られた。明治43(1910)年の「旧暦廃止」に都市化・工業化による農漁業の比重の低下という趨勢があいまって、いよいよ旧暦行事は衰微せざるをえなくなったと考えられる。p203-4

 このあたりは興味深いなあ。大正から昭和の初めにかけて、阪神地域の民俗世界に大きな変動が有ったということだよなあ。それまでは、自主的に旧暦に集まっていたわけだし。単純に、新暦だけの世界に慣れていったというのもあるかもしれないけど、旧暦にこだわらなくなったのはなぜかということになるしな。

 これまでの鉄道史では、明治末期以降の大都市近郊電車の特徴として、単なる交通機関としての性格にとどまることなく、沿線の不動産営業やレジャー開発といった多角経営を行うようになったことが指摘されてきた。だが、そのような視点に基づいた研究は、もっぱら阪急の宝塚や東急の田園都市などといった目新しいものに注目し、社寺参詣という近世以来の伝統をもつものとのかかわりを看過しがちであった。しかし、本書の内容からわかるように、大都市近郊電鉄の経営戦略は社寺参詣にも大きい影響を及ぼすようになった。今日の大都市圏の社寺参詣のありようは、この点を考慮することなくしては決して理解することができないのである。p.213

 「伝統」と鉄道。このあたり、ケネス・ルオフの『紀元二千六百年:消費と観光のナショナリズム』とも繋がりそうだな。