原淳一郎『江戸の寺社めぐり:鎌倉・江の島・お伊勢さん』

江戸の寺社めぐり―鎌倉・江ノ島・お伊勢さん (歴史文化ライブラリー)

江戸の寺社めぐり―鎌倉・江ノ島・お伊勢さん (歴史文化ライブラリー)

 伊勢神宮への参詣を中心とする、長距離の参詣旅行を扱っている。このタイトルだと、江戸近郊の寺社巡りの本かと思うが、伊勢やその他の聖地へ詣でる広域の旅行を対象としている。
 全体は四部に分かれ、第一部、第二部が一般的な庶民の参詣旅行について。第三部が、文人の旅行や旅行記の特色、第四部が江戸中期以降の大衆的な旅行を現出させた要因についての議論。
 第一部、第二部は「旅に出る前に」、「旅の実態」ということで、残されている史料から旅行の準備やルート選択といった、この当時の旅行に関わるものごとを抽出している。餞別をくれた人を記録した餞別受納帳やサカムカエの帳面、お土産関係の帳面などが紹介されていて興味深い。同時に、このような手続をまめにやらないと、地域社会で生きていくのが大変だったんだろうなってあたりも興味深い。
 続いては旅そのものについて。旅行のルートの選択に関わる様々な要因。行きと帰りで別のルートを通るパターンや、荷物の回送サービスやガイドサービスとそれを供給する業者の選択によって、かなり規定されてしまうこと。物見遊山の性格が強まるために、逆に途中で様々な聖地に寄って、旅の聖性を維持しようとしたというのも興味深い。また、聖山への詣では、それが困難だったゆえに聖性が維持されたと。また、参詣に際して、御師の館に泊まり、その案内のもとに参詣が行われる状況。また、伊勢の御師宅や江ノ島で供される生鮮海産物を豊富に使った豪華な食事が出され、それは旅の記憶にとどめておくべきものとして旅日記などにも特筆されたというのも興味深い。
 第三部は文人の旅行について。特に、武士の先祖にゆかりのものが多い、「武家の聖地」鎌倉と、文人とのかかわり。島津家や毛利家が、先祖の墓石などの由緒を捏造している状況や、地誌をもとにした、楽しみ。あるいは、文人旅行者の「批判精神」など。
 第四部は広域の参詣旅行を大衆化させた要因。寺檀制度の整備が寺院を人々の身近なものにした一方で、神秘主義や様々な宗教的要求に応えられなくしてしまったこと。また、檀家を持てない寺院が、宣伝を通して参詣者を集めようとしたことなど。御師の活動や村落に様々な宗教者がやって来ていたこと、村落有力者の宗教活動、経済的要因などが紹介される。
 基本的に近世の旅行に関する書物は、東日本に偏っているように感じる。本書でも九州関連はp34-5の八女の人の旅行ルートが紹介されるのみで、基本的には東日本に史料、特に福島県の史料が中心だし。九州、特に熊本県内の人々がどのような旅行を行っていたのかというのに興味をもつが、そもそも、どのような旅日記があるのかさえ分からない状況という。生の史料を探すのはさすがにねえ、翻刻されていないと読めないし… そもそも、熊本県関連の交通史に関する研究が非常に手薄な感じ。
 本書の文献リストは、わりあい充実しているので、ここから近世ツーリズムの勉強を始めるには便利だと思う。


 以下、メモ:

講の成立
 御師だけでない。各地で講が成立してくると、その講を寺社が組織化しようとする。要するに講の把握と統制である。個人一人一人をあいてにするよりもはるかに信者数を把握することが簡単である。例えば、成田山新勝寺は十九世紀に入ってから徐々に講が組織化されていき、むしろ近代になってからさらに講を拡大させ、現代の繁栄の礎を築いた。昭和四十三年(一九六八)時点の「講社芳名録」によれば、北は北海道から南は九州まで講が形成されており、かつ各地の信仰の核として、こちらも北海道から九州まで「別院」が設けられている(『新修成田山史』)。
 この成田山の成功例を見るにつけ、寺社の側からすれば、都市であろうが農村部であろうが、講を組織させることが成功の鍵を握っていたと言えよう。あれほど江戸文学のなかに登場していた相模大山が、とくに都市において、講の組織化と把握ができなかったために、近代以降急激に檀家を減らしていった歴史とは、あまりに対照的である。p.19

 講を組織することの重要性。成田山の広域的な信仰圏は興味深い。ただ、熊本ではあまり聞いたことがないなあ。

 江戸時代中期以降の旅は、全体的には聖的な時間と空間に身をゆだねながら、そのなかにおいて、聖性を感じる部分(寺社参詣)と俗性をを感じる部分(物見遊山)が絶えず交互に繰り返される旅であった。このようにして気持ちを高め、身体を清め、ハイライトである伊勢神宮を迎えるのである。江戸からでも約五〇〇キロ近くもある道のりを、三十日近くかけて到着したときの感動はいかばかりだったろうか。p.37

 多くの伊勢参宮の旅人が途中に多数の有名寺社に参詣していることについて。

 これに対し、庶民の旅ではだいたい六ヵ所に限られる。六ヵ所とは円覚寺建長寺鶴岡八幡宮高徳院(大仏)・長谷寺極楽寺である。この六ヵ所なら、無駄に歩くことなく効率的に見て廻ることができ、およそ半日もあれば十分である。これらは今の修学旅行の訪問先とそう変わらない。このルートから外れた東側にも浄土宗の関東十八壇林の筆頭光明寺ほか、見応えのある寺社は揃っている。ところが、庶民の旅の動向によって西側にある特定の寺社が「名所」として一つランクアップを果たしたことは間違いない。これが現在の観光地としてのあり方を規定しているのは実に興味深い。p.86

 近世と現在の観光先の継続性。