30日の残り。本妙寺で目に付いた物を。石碑類は碑文が読み取れなかったものが多いし…
六喜廟(加藤忠広の墓所)
昭和11年に、加藤忠広とその息子、生母らを分霊して祭ったものだそうだ。比較的新しいのだな。雰囲気はずいぶん古そうな感じだったけど。まあ、軍国主義的な時代の空気と関連した行動だったんだろうな。国柱会の創立者が碑文を書いているあたり特に。
説明板
六喜廟
加藤忠廣公一族の墓所
肥後藩主加藤清正公の嗣子二代目藩主忠廣公は、寛永九年(一六三二)突然徳川幕府に領地を没収さ
れ、出羽国(山形県)庄内に配流されました。さらに幕府は、十四歳になる長男光正を飛騨国(岐阜
県)の高山へ、次男で三歳の正良を生母と共に上州(群馬県)の沼田へ流して切腹させ、豊臣方の重
臣加藤家を断絶しました。忠廣公はこの暴挙に逆らわず、配所で二十二年間隠忍大黙のまま天下の平
安を保って不遇の生涯を閉じました。
忠廣公没後およそ三百年を経て、本妙寺住職塩出日等上人は、忠廣公一族が故郷の清正公のおそばに
還られるよう県民有志と共に「加藤忠廣公顕彰会」を設立し、昭和十一年八月二十三日、忠廣、光正
正良、忠廣の生母正応院、正良の生母法乗院など五霊位の分霊を配所各地より迎え、翌十二年五月十
六日、清正公墓所浄池廟の膝下に祀りました。これが六喜廟です。
廟の左下に建つ「六喜廟碑」は、日蓮主義教学の大家で宗教法人国柱会創立者の田中智学先生が、塩
出上人の浄願に感動し、その請いを容れて撰文揮毫され、「六喜廟」のいわれが記されてあります。
常夜灯
復元されたものらしいけど。熊本城から見えるように作られたものだそうな。
説明板
常夜燈
この石垣は、かつて加藤忠広公によって建立された
浄池廟常夜燈の跡と伝えられている。
慶長16年清正公が薨去され、ご遺言により中尾山
中腹の現在の地に御廟所が造営されたが、清正公のあと
をつがれて肥後の太守になられた嗣子加藤忠広公は、ここに
常夜燈を建立され、この灯りをたよりに遥か熊本城より
朝夜御父君の御廟所に拝礼されたという。忠広公の御孝
心を物語る遺跡ともいえよう。
その常夜燈も寛永10年加藤家改易後、いつしか消滅し
て石垣を残すのみとなったが、昭和49年に熊本市の篤信
者の寄進により常夜燈楼が石垣上に再現された。
大木土佐守兼能の墓
清正死後に殉死した家老の墓。清正廟の右側、トンネル状になっている場所をくぐった先にある。
→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E5%85%BC%E8%83%BD
解説板
殉死墓(大木土佐守兼能)
法号 堯心院殿了日解居士
慶長十六年(1611)六月二十五日没
大木土佐守兼能は尾張の人で、佐々成政に仕え、
成政肥後下向に随伴、禄三千石の家老であった。
成政没後、加藤清正に仕え、京都屋敷の留守居番役
を務め蔵米の販売や豊臣家との折衝の任に当たる。
慶長五年、関ヶ原の戦いで、石田三成が諸大名の妻子
を大阪城内に人質にしようとしたとき、大阪の肥後
屋敷から清正夫人を肥後に脱出させ、その知謀妙計
は一代の殊勲といわれている。その後、清正の家老
役として財政管理の任に当たり、最も信頼し得る
側近として領内政策全般を管理した。
慶長十六年(1611)六月二十四日、清正の死に
あい悲嘆にくれ。翌日殉死。清正廟の傍らに葬られ
ている。
六十歳
熊本市 観光物産課
栗毛堂
清正の愛馬帝釈栗毛を祭ったお堂。中には真っ赤な馬の木像がある。ならず者に喧嘩を売っても、帝釈栗毛には喧嘩を売るなとか言われた、気の荒い馬だったらしい。
狛犬や猿などが。
説明板
江戸のもがりにさわりはすとも
避けて通しゃれ帝釈栗毛
清正公の栗毛の愛馬
「往来で江戸のならずも
のにぶつかったとしても
帝釈栗毛は避けて歩け」
というほど荒々しい馬で
あったと伝えられていま
す。
本妙寺仁王門
そう言えば、中の仁王さんを撮るのを忘れていたな。
初期の鉄筋コンクリ造りの建造物で、国指定登録有形文化財。大正9年竣工。2010年あたりに修復されている。
→熊本市の文化財:本妙寺仁王門