熊本県立美術館ミュージアムセミナー「加藤家・細川家ゆかりの武器と武具」

 現在、県立美術館で開催されている「熊本城と武の世界」の展示物を紹介する講演。
 近世に熊本城に関わった加藤家と細川家。後者は、現在も永青文庫としてまとまって保存されている。一方、加藤家は、近世初頭に改易されて、関連文物は分散してしまっているが、本妙寺に寄進されたものと、清正の娘八十姫が引き出物として紀州徳川家に持参し継承されたものがまとまって残っている。最初に功名をあげた賤ヶ岳で使った大身槍や虎退治の際に使われたとされる片鎌槍は、紀州徳川家で継承され、その後、東京国立博物館に寄贈されている。


 加藤家と細川家では、残された甲冑にかなり差がある。
 清正所用のものを含め、華麗な桃山様式の当世具足。金と朱の色彩に、面頬や籠手、佩楯、臑当も揃ったフルセット。また、鉄鉢の上に紙と漆で烏帽子の形を作り出した変わり兜が清正のトレードマークと。同時代の変わり兜には、立浪形や頭巾形などがあったそうで。
 この鎧、胴が一枚板になっているけど、これ材質は何だろう。あと、加藤忠廣所用の鎧がむちゃくちゃ小さいのが印象的。元服の時に使ったものではないかという話も。


 一方で、細川家は三斎流の簡素な鎧を、「御吉例」の鎧として継承していった。細川忠興創案の三斎流は、実戦経験を反映した軽量な具足。革製の頭形兜、前後に別れる二枚胴形式で、それぞれの胴は横長の鉄板をつなげている。草摺の裾二段は、緋のビロード包みだが、これは装飾だけでなく、馬の鞍にあたって音を立てないという実用的理由。臑当は、鉄板を鎖でつないだだけで、実は素通しなんだそうな。鉄砲の時代には、むしろ、かさばらないことが重要だったのだろうか。一方で、山鳥の羽を使った立物で自己主張。
 これが基本で継承されていくが、儀礼用の甲冑として、古代からの大鎧形式の物も残されている。


 刀の出品に関しては、加藤家関係では、備前刀工左文字派の太刀を擦り上げた伝左(加藤左文字)、二条城会見のおりに所持していたと伝わる備州長船祐定の短刀、城に備える御用刀の同田貫など。同田貫のなかには「五十之内三六」と刻まれたものもあって、ある程度のロットで生産されたようだと。
 細川家関係では、本妙寺に奉納された短刀光世、信長から拝領した脇差運天有敢莫退 晴思剣、秀忠から拝領したとされるくりから竜が刻まれた彫貫盛光が紹介される。
 晴思剣、室町時代初期の長刀を摺り上げたらしい。


 ラストは、陣具や刀装具の類い。細川忠利が島原の乱で使ったという陣鋸、陣鉈、陣鎌。あるいは、肥後拵と現在に引き継がれる刀の鍔などの肥後金工。林、西垣、平田、志水の四流派。全体に地味な、玄人好みの作風であると。
 あと、刀の拵は、複数準備されて、TPOに応じて付け替えられたという。