清水新地菅原神社の石造物

 清水中学校の西、北バイパスから南に一つはいった旧道がカーブしたところにある神社。「新地」というからには、比較的新しい時期に開拓された場所なんだろうな。立田山からの小河川で水田を、後の立田山に向かう台地で畑作と草肥の採取を行った立地なのだろう。昭和十年に三百年を記念する石碑を建てているから、17世紀の前半には成立していたと思われる。


延宝四年の水盤

 1676年に寄進された水盤。きれいに文字が残っていてありがたい。17世紀か。


 延宝丙辰歳 敬
奉寄進水盤
 五月吉日  白


「三百年紀念」碑

 昭和十年に建てられたもの。1935年に三百周年と。



石碑正面

三百年紀念
  昭和拾年十月二十日



台座正面

氏子中


氏子総代


区長
 白石 謀
 三好文彦
 宮田三平
 水野新三郎


建設委員
 松村作次
 斎藤義人


「再建五周年記念之碑」

 大戦で焼失したのを昭和49年に再建したという。軍事施設が間近にあったから、巻き添えを食らったんだろうな。裏面の関係者は省略。



石碑正面

 再建五周年記念之碑
新地菅原神社は菅原道真
を祭神とし細川忠利公の寛
永年間今を去る三百三十有
余年前建立されました
昭和廿年八月十日米軍の空
襲により一挙灰燼に帰して
しまいました
昭和四十四年八月総工費百
六十余万円で同年十月吉日
本殿が再建されました
町民の信仰の的であり今日
迄神社を中心に町の発展が
進められて参りました
昭和四十九年十月再建五周
年記念式典を挙行し往時を
偲びました
昭和四十九年十月吉日 氏子一同
         井上俊雄謹書


「神殿再建記念碑」

 注連縄で良く見えないが、おそらく昭和四十四年の建立。五周年記念碑があって、再建時の記念碑が存在しないのも不自然だしな。「四年十月二十一日」とは読めるが。あと、台座の関係者名は省略。


「菅公一千年余記念碑」

 逆光なのでいまいち碑文の読み取りが正確でない。おそらくこれでいいはずだけど。菅原道真没後千年記念碑。あちこちで建てられまくったみたいだ。



石碑右面

明治三十五年三月廿五日建立


「慰霊之碑」

 忠魂碑に類するもの。第二次大戦の戦没者を慰霊する石碑。神社境内の南端、消防団の倉庫裏に建っている。第六師団がブーゲンビル島で壊滅していたり、第二十三師団がフィリピンで壊滅していたりするから、大字単位でもかなりの死者が出ているな。あと、台座側面の寄附者名は例によって省略。
 碑文を見ると、ここも地筒の集落らしい。



石碑正面

慰霊の碑
   井上俊雄謹書



石碑裏面

昭和六十二年四月十六日建之



台座正面上段

戦没者氏名
渡辺直喜行年三十四才
松村 馨  三十七才
白石忠士  二十六才
山田政人  三十三才
白石忠年  二十四才
山田 修  二十八才
陣内静信  二十五才
山中秀人  二十四才
水野忠喜  二十五才
斎藤直行  二十五才
佐藤 誠  二十三才
高須末勝  二十二才
白石信年  二十四才
斎藤満治  二十四才
安政信  二十二才
水野親雄  二十一才
斎藤行人  二十一才



台座正面下段

 支那事変 大東亜戦争
  戦没者の霊に捧ぐ
 あなた達は、この菅原神
社々頭にぬかづき 武運長
久を祈願し 町民に万才万
才で送られ戦場に向われま
した 尚武の地に生まれ宮
相撲又柔道かため石等で体
をきたえ育ち誇り高き地筒
の子孫として 体内の血を
最高に沸き立たせその責務
を果たされました
 然しながら武運拙なく二
度と新地の土を踏む事なく
親兄弟また最愛の奥様とも
会う事も出来ず悠久の平和
を願ひつつ戦没致されまし
た 今度新友会々員一同相
計り あなた達の霊を故郷
新地にお迎へ致します
 あなた達の尊い戦没の代
償として得ました平和と自
由を我々は守り抜き再び斯
様な悲惨な事が無い様に致
します
  昭和六十二年四月
    新友会々員一同



台座裏面

建設発起人
 新友会
顧問  井上俊雄
会長  山中斎
副会長 有安正之
会計  高木貞光
会計  緒方貞夫
    小野祐幸
    小野和久
    斎藤吉春
    重永重信
    重永時満
    重永二男
    白石勝人
    高須幸信
    中林 平
    林 健一
    水野年光
    水野年雄
    水野義行
    水野雄助
    宮田 司
    森 光信
    山田一
総工費金壱百五拾五万円也
    設計
    施工前田石材加工