「御親閲之処」碑

 東バイパス沿い、元は再春館製薬関係だった建物の敷地の端に建っている石碑。三角形の石がふたつ並んでいる。昭和6年の陸軍特別大演習にともなう観閲式の記念碑と帯山地域の沿革碑が並んでいる。





右石碑正面

御親閲之処


 昭和六年十一月十
八日熊本、大分、福
岡、佐賀、長崎、宮
崎、沖縄、山口各県
の男女学生、男女青
年団員、青年訓練所
生、在郷軍人等六万
六千余人は、帯山練
兵場に於いて天皇
下の御親閲を受けま
した。分列式終了後
は一万四千人よりな
る女子奉唱隊が奉迎
歌を奉唱しましたが
分列式参加者も奉唱
隊員も感涙に咽び、
式場を囲繞する数万
の拝観者の中には大
声をあげて感泣する
者もありました。
 これを記念して立
派な碑が建立され帯
山のシンボルとなっ
ていましたが今回東
バイパス建設のため
取りこわされ敷地も
四分の一を残すのみ
となりました。
 このことを歴史的
事跡として後世に伝
えるために有志の方
方のご協力を得て茲
に復元いたしました。
 昭和五拾年十一月十八日
   帯山御親閲
    記念碑保存会



左石碑正面

  帯山地域の沿革
 帯山・保田窪の一帯は、次のような歴史をたどって今日に
至っている。
 一、天授四年(一三七八年)
   南朝方の菊池武朝は十六歳の若さで後征西将軍良成
   親王を奉じて、北朝方の名将今川了俊の軍を託麻原に
   打破り、南朝最後の勝利をあげた。
 一、天正八年(一五八〇年)
   御船城主甲斐宗運阿蘇宮司の名代として、薩摩の
   島津氏についた隈本城主城親賢を攻め、両軍は託麻原
   で激しく戦ったが勝負がつかなかった。
 一、寛永十一年(一六三四年)
   保田窪開拓のために地筒と呼ばれる郷士が入植し、保田
   窪天満宮を建立した。
 一、寛永十四年(一六三七年)
   保田窪地筒の郷士達は島原の乱平定のために阿部弥一
   右衛門に率いられて従軍した。
 一、江戸時代には、今の帯山小学校前に、一米半位の深さの凹
   道があった。これが南郷往還であり、別名を上使の道と
   と呼ばれていた。
 一、明治十年(一八七七年)
   熊本城の包囲を解いた薩摩軍は健軍から保田窪にかけ
   て大防禦線をしき、四月二十日、政府軍との間に大激戦が
   行われた。
 一、大正十三年(一九二四年)
   二十五万坪の畑地を陸軍省が買い上げて帯山練兵場とした。
 一、昭和六年(一九三一年)
   山口九州各県の男女学生・青年団員・青年訓練所生・
   在郷軍人等六万六千余名が帯山練兵場で、
   天皇陛下の御親閲を受けた。
 一、昭和二十三年(一九四八年)
   農林省は帯山練兵場を開拓地に指定し、開墾終了後
   払下げた。
 一、昭和二十八年(一九五三年)
   六・二六大水害直後から住宅地帯として急速に発展した。
 一、昭和二十九年(一九五四年)熊本市立託麻原小学校創立
 一、昭和三十三年(一九五八年)熊本市立帯山小学校創立
 一、昭和三十四年(一九五九年)熊本市立帯山中学校創立
 一、昭和四十一年(一九六六年)熊本市立西原小学校創立
    昭和五十年十一月     文 村上望城
                 言 斉藤鶴跡



石碑裏面

 世話人
熊本日日新聞社
 社長 島田四郎
熊本放送
 常務取締役 村上望城


 帯山小学校区
第一町内自治会長
    平塚 義雄
第二町内 同
    早瀬 豊夫
第三町内 同
    原田 正士
第四町内 同
    続  光明
第五町内 同
    堀江 文吉
第六町内 同
    上土井松芳
第七町内 同
    武田  全
第八町内 同
    伊藤 壬人
第九町内 同
    松本 又彦


初代校区自治会連合会長
    善行 賞親
二代 同
    市原 義弘


(現)帯山、尾の上、西原校区
 遺族会長 穂積時次郎
初代帯山校区老人クラブ
 連合会長 堤  正勝