- 作者: 安田政彦
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 2013/01/01
- メディア: 単行本
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古代については、災害からの復旧は国衙や郡衙の役割だろうから、中央に関連の史料が残っていないのは当然だろうな。中世については、どうだったかも想像つかない。
というか、前近代においては「人間復興」というもの自体が存在しなかったんだろうな。コミュニティ単位の復興が行われ、それが不可能ならどこか移住するしかなかったのではなかろうか。
以下、メモ:
この激甚な災害については、発掘から復興の様子が明らかになっている。国府周辺地域では水田の復旧が行われたものの、赤城山麓では火山灰の降下堆積によって水田は放棄され、そのうえに広大な畠を耕作するようになったのである。被災地の人々は他所へ移住することなく、その地に居住し続けたのであり、長期間を要して水田から畠耕作に生活基盤を転換することによって復興を成し遂げていったものと思われる。そして、この復興過程で、再開発地が豪族などの私領として広範囲に出現し、荘園設立ラッシュとでもいうべき現象を生む。p.24
1108年の浅間山大噴火からの復興。どの程度の期間で行われたか。本当に住民の移動が行われていないかなどに疑問がわくが。むしろ、地域の社会構造の大転換を伴ったわけで。
宝永の富士山噴火もそうだけど、火山災害は大量に火山灰が堆積するだけに、復興も難しいところがあるな。耕地だけではなく、それらを支える植生そのものが破壊されるだけに、短期的には生活も難しくなりそう。永原慶二『富士山宝永大爆発』が詳しいが。
ところで、連歌師宗長が大永二年(一五二二)から同七年にかけて、郷里の駿河と京都の間の四度におよぶ旅を通じて、和歌界、連歌界、俳諧界の状況を記した「宗長手記」には、この大地震ののち、大永二年に伊勢国安濃津(三重県津市)を訪れたときの様子が記されている。
安濃津は十余年来荒野になっており、四、五千軒の家、堂塔の跡が残るのみである
とみえ、この大地震から二四年たっても港湾都市として繁栄していた安濃津が荒廃したままであったことがわかる。その後、安濃津の復興が知られるのは大地震から五〇年もたった頃であり、それも安濃津住民が移転して復興を果たすのである。p.64
1498年の明応東海大地震の津波被害をうけた安濃津の復興状況。大打撃を受けると、一時的には集落が廃絶してしまうと。
第三に、無秩序に郊外へ拡張した脆弱な市街地の形成である。震災を契機に多数の人々が郊外に移住したが、その人々を受け入れるための基盤整備が後手に回り、公共空間の少ない危険な密集市街地や不良住宅地を被災地周辺部に生みだすことにつながった。p.196
関東大震災後の東京のスプロール的拡大。スラムの郊外への拡大。ただ、後藤新平の都市計画が計画通りに推進されても、スラムの郊外への拡大は起きたんじゃないかねえ。都市計画の歴史は、反面貧民の郊外への排除の歴史だし。