末木文美士『近世の仏教:華ひらく思想と文化』

近世の仏教―華ひらく思想と文化 (歴史文化ライブラリー)

近世の仏教―華ひらく思想と文化 (歴史文化ライブラリー)

 思想史を中心として、戦国時代から近世、近世から近代への仏教の変化を描いている。現実世界である「顕」の世界と、その裏面にある神仏の世界である「冥」という二重構造の世界観のバランスの変化が軸となっている。また、近世の仏教の特徴として、「現世化」「世俗化」の進行も指摘される。ただ、「封建制」とか、庶民が政治参加できなかったとか、社会を描くタームが少々古色蒼然としているのが気になる。
 最初は戦国から江戸幕府の開設にいたる天下統一の過程での変化。中世には「冥」の世界が強く、それが世俗社会を規制していた。それが、信長、秀吉、家康の三人の天下人の時代を通して、「顕」の世界の力が伸長し、逆に「顕」の国の支配者が「冥」の世界で力を振るうようになる。また、宗門人別改めなど江戸幕府の行政の末端を担わされ、逆に民衆の世界に入り込んで行く手段を得る。また、近世初頭には儒教よりも、知的な面でも先んじていたことが指摘される。
 近世の仏教はキリスト教徒の対決、中国から黄檗宗流入に代表されるさまざまな文化の交流、さらにはオランダ貿易を通じた情報のやり取り。さらには、思想と実践ということで、さまざまな仏典が印刷で出版流通するようになり、それを前提とした教学の研究が進んだこと。結果、原点志向が進んだ。逆に、中世の口伝的な教学が批判にさらされるようになる。また、各教団内で戒律の復興運動が盛んに行なわれるようになる。この時代の特色として、世俗の倫理に従うように進める言説が増えてくることも指摘される。しかし、この文献主義って、宗教としての仏教には枷になったんじゃないかね。「思想」としての厳密性は増したかもしれないが、逆にイメージの跳躍で想像力を刺激し、時代に適応していく能力を失わせたのではないだろうか。仏教の用語を使って、新しい信仰の世界を表現した幕末期の新宗教天理教富士講などの宗教運動を見ると、逆に教学の研究の進展が宗教としての力を殺してしまったんじゃなかろうか。現在の仏教の説教でも、そういう側面があるような気がするが。
 信仰の諸相として、教団に属せず自由な修行を行なった人々や、女性の信仰、仏教美術の世界、民衆の信仰や真宗の特異性などに言及される。世界のさまざまな物事の原理が科学的に説明できない世界では、不可知の動きについて、宗教に頼るしかなかったんだろうな。
 最後は近代に入ってからの仏教の変化。江戸時代の終わりになってくると、平田派の神道において、「冥」の世界の探求がおこなわれ、宗教的な力を持つようになってくる。これが新政府に取り入れられ、仏教の弾圧が行なわれる。しかし、仏教は生き残り、「近代的」な信仰のあり方にシフトして、民俗宗教的なあり方を切り捨てて、再編されることになっていく。
 個人的には、「思想史」としての宗教というのにあまり興味がないのだが、全体の見通しを得られるのは良かったかな。「顕」と「冥」の世界という考え方については、いまだに生きているような気がするな。そして、宗教は「冥」の部分を軽視すると、その生命力が衰弱していくのではなかろうか。ヨーロッパのキリスト教会なんかがそんな感じだと思うが。そして、日本の社会では、スピリチュアルとか、パワースポットとか、そういう形で「冥」の世界に対する信仰が生きているのではないだろうか。


以下、メモ:

 しかし、顕密体制論が明らかにしたのは、そのような新仏教的な発想は中世にはごく一部にしか見られなかったもので、中世を代表するものではないということであった。そこで、そのような特殊な発想よりも、もっと中世らしい顕密仏教こそ中世研究にとって重要だということになる。
 実際その後の中世仏教の研究は、狭い意味での新仏教よりも、顕密仏教を含めて、より広い仏教の活動を研究対象とするようになっている。とりわけ顕著なのは、以前は否定的にしか見られなかった密教神仏習合の研究が進められ、それらがきわめて重要な意味を持つことが明らかにされつつあることである。たとえば、即位灌頂の儀礼は、中世においては天皇もまた密教的に意味づけられることが必要であったことを示している。p.15

 メモ。

 中世には王法・仏法が対等に並んでいたが、近世においては、一見すると世俗の権力が仏法を凌駕し、仏法を支配するかのように見える。確かにそれはある面で正しい。しかし、他方で仏法は人々と直接触れ合う領域を確保することで、その地盤を強化することに成功した。その地盤の上に近世の仏教が花開くことになるのである。p.40

 近世の仏教と幕藩体制の相互依存。

 それでは、キリシタン弾圧によって、その影響は途絶えたのだろうか。西洋の文物、科学は長崎を通して貪欲な日本の知識人によって吸収され、蘭学として近代を準備する基盤を作ることになった。そればかりでなく、禁教下でもその影響が必ずしもなくなったわけではなかった。そればかりでなく、マテオ・リッチの『天主実義』もまた、禁書でありながら、ある範囲に流通していたことは確かであり、とりわけ平田篤胤がその影響を受けたことが知られている。奇妙なことに、仏教を飛び越えることで、キリスト教神道が結びつくことになる。その思想史的な意味については、今後の検討を要することである。p.75-6

 へえ。禁教下でも、キリスト教書って流通していたのか。で、それが平田派の神道に影響を与えていると。

 中国仏教というと、従来、六朝期を準備期として、隋・唐代にもっとも隆盛に達して、その後は衰退すると考えられてきた。日本における近世仏教堕落論と同じで、とりわけ明代以後の仏教は創造性を持たず、考察に値しないものとして、ほとんど顧みられることがなかった。確かに宋代に朱子学が現われて以来、儒教の復興が著しく、また、道教も体制を整備して勢力を拡大したこともあって、仏教が主流の宗教とは言えなくなった。しかし、そのことはただちに仏教の衰退とは言えない。むしろ明代以後、仏教は儒・道とも習合しながら、民衆の中に定着していくのである。とりわけ明末は雲棲?宏(一五三五-一六一五)をはじめとする四大師と呼ばれる高僧の出現で、仏教復興の機運が高まった時期であった。ところが、明代以後の仏教の特徴である諸教の融合、禅と念仏の融合、現世利益などが、近代になって不純なものと考えられ、否定的に見られるようになったことによって、この時代の仏教は十分な評価を得られなくなってしまった。隠元はまさしくこの新しいエネルギーに満ちた明代仏教を伝えたのである。p78-9

 むしろ、近代の干からびた、頭でっかちの宗教よりおもしろいかもな。

 次に、錦袋円の販売という営利活動を積極的に活用していることも注目される。鉄眼の開版も大事業で、膨大な資金を要したが、それを寄進でまかなえたということは、当時それだけ社会的に豊かになり、経済的な余裕ができてきたということである。了翁の場合は自ら錦袋円の製造販売で大儲けして、それを大蔵経寄付に回すことができた。それはもともと意図したことではなかったものの、僧侶が積極的な営利事業に加わって富を築くことが可能な社会であったことを示している。p.100

 鉄眼の大蔵経を寄付して回った僧侶の話。中世には、寺院が商業を握っていたことを考えると、むしろ僧侶が営利事業を行うことは普通だったんじゃなかろうか。そういう時代の最後に位置する人とも理解できそうだが。

しかし、確かに論争として十分に発展はしなかったものの、両者の主張は内容的に見れば、日本独自の大乗戒を堅持するか、それとも大乗以前の小乗部派に由来する汎アジア的な具足戒を採用するか、ということであり、その意味は小さくない。実際、このような汎アジア主義は普寂や慈雲の目指す方向とも共通し、釈尊への復帰ということが根底にある。安楽律の場合、天台宗内にかぎられ、教学的にも宋代天台というところまでしか遡らなかったが、このような原点志向は近世仏教の大きな特徴をなし、それが近代の原始仏教志向へと継承されてゆくことになるのである。p.114-5

 近世仏教の原点志向。

 葬式仏教は一見すると過去の遺物のように見られるが、実は近代になって、仏教が国教的地位を失ってからも再編されて、ある意味では国家社会体制を補完する重要な役割を果たしている。近代日本の国家社会体制は基本的に天皇を頂点とする家父長体制であり、憲法教育勅語民法皇室典範を四本柱として成り立っている。長男が家督を継ぎ、財産を一括相続して、家の成員に対して絶対的な権力を持つ。その家督相続の象徴をなすのが、墓と位牌の相続である。ところが、葬式と死者の供養を仏教が独占しているため、墓も位牌も寺院の管理下に置かれる。こうして、近代の家父長体制は、明文化されない基底を仏教によって支えられるという構造になっているのである。p.195-6

 ふーむ。

 それでは近代とはどのような時代であろうか。表層においては欧米の科学主義、合理主義が持ち込まれ、「冥」の領域が切り捨てられる。「冥」の領域に属することは、迷信として否定される。「冥」の領域はこうして表面からは消し去られるが、無くなるわけではない。それは表面から深層に抑圧されて、時に合理性や科学性では説明できない現象として噴出する。それは、大本などの新宗教の神話や、あるいは超古代史のような世界で生き延びる。そもそも、天皇崇拝自体が「顕」の世界では説明しきれないことである。p.199

 今も、「冥」の世界って隠然として存在するよなあ。ニセ科学批判の限界はそのあたりにあるのかもな。