シンポジウム「日本近世の領国地域社会」に出撃

 昨日に引き続き熊大のシンポジウム「日本近世の領国地域社会」に出撃。朝の9時半開始だったが、一時間ほど遅刻。午前中から出撃というのは、めったにないこと。
 個別の報告に関してまとめるのは大変なので避けるが、シンポジウムのまとめで藪田貫氏の「熊本では村が見えない」という指摘が印象的だった。地域の実態に即さなければ、たんなる「領国社会」でよくて、「領国地域社会」と称する意味がないのではないかというのは、けっこう、急所を突いた指摘だと思う。そもそも、熊本県の歴史研究において、「ムラ」の存在感がもともと薄いというのは確かなんだよな。これには、熊本藩文書という豊富な素材が存在し、そこでは手永という強力な機関が村という存在をマスキングしてしまうという状況が一つには大きいのだと思う。これは「永青文庫研究センター」という組織が克服しがたい弱点だよなあ。どうしても行政文書という限界が存在する。惣庄屋の家には大量に草稿段階の文書が残っているということなので、こういうのとつき合わせて考える必要があるのだろうな。
 ただ、史料上の問題だけではなく、熊本において、そもそも村の存在感が薄いというのはあるのかもとも思う。熊本市東部に限れば、近世に入ってから出現した村落が多い。戸島村や長嶺村などの中世に遡る村落も、中世の村落社会の実態を示すような文書は発掘されていない。村の伝統が相対的に短いという可能性は考慮すべきかも。戦国末期の島津家の九州制圧、さらにそのあとの肥後国一揆が影響しているのだろうけど。「自治的な村落」が外部から移入されたなんてところまでは行かないと思うけど。


 以下、ちょっと考えたことを。
 吉村報告や高槻報告で、熊本藩の宝暦の改革が、藩が大坂に移出する米の枠内でやりくりする方向性であったこと。また、倹約や専売などの改革のメニューが単純な内政の問題ではなく、大坂市場での好感を誘い、米切手の価格を上げるための手段であったことが指摘される。これらの議論から、熊本藩の経済が米モノカルチャー的な形で大坂の中央市場に従属する方向に動いたと理解したが、熊本藩全体では100-150万石前後の米が生産され、藩の取り分が35万石程度であったとすると、ちょっと成り立たないなと思った。熊本藩内で生産される米がどのように流通したか、民間の米がどの程度大坂市場へ移出されたかを検証しないと、大坂市場と熊本の経済というのは読み解けないなと。19世紀になって中山間地矢部や砥用方面で石橋や水路の開発が盛んに行なわれていることを考えると、商品作物としての米の重要性が高まった、あるいは条件が余りよくない土地でも投資がペイするほどの価格上昇があったのかなと感じるのだが。
 この熊本藩経済の従属化という観点からすると、東海道地域でプロト工業化が進展し、近代には自生的な工業化された要因はなんだったのか、西国諸藩同士より、尾張藩や関西・関東の非領国地域との比較が重要なんじゃなかろうか。


 第二に藩政文書からは、局地的市場や通婚圏といった流通や歴史人口学的な地域関係が見えにくいという欠点があるように思う。手永という行政範囲にたいがい在町という都市的集落が存在すること。戦国期の在地領主の拠点に近い場所に在町が形成されると、もともとの地域のまとまりが存在して、その上に手永が乗っかっているという話があったが、そうだとすると行政以外の地域的まとまりの析出は重要だと思った。
 これに関連して熊本藩では人別帳のような歴史人口学的に利用できる史料は手永が管理していたのか、村単位で持っていたのか。それは現在、どの程度残存しているのかが気になる。


 あとは、手永の地方役人層の経済的基盤やどこからリクルートされたか。今村報告では、やはり役人の子弟層が多いが、小前層の息子で病弱なものを採用してくれと要請されていたという事例もあるそうだ。また、役人の家では一人か二人が官僚として従事し、ほかが百姓として生業に従事していたということだが、その役人の次男以下の人々はどのような生業に従事していたのだろうか。地域の商人や地主層とどれだけ重なるのか。プロソポグラフィックな研究が有用そうだけど。