ポール・ケネディ『第二次世界大戦 影の主役:勝利を実現した革新者たち』

 うーん、なんか読むのにものすごく長くかかった。2月の半ばに手をつけたのに、他の本に追い越されまくって、やっと読了。同じタイミングで借りた本の最後になってしまった。かなり浩瀚な本だけど、読んでいてそれほどおもしろくないんだよな。なんというか、ディテールが足りないような気がする。まあ、著者のケネディのスタイルが、史料を直接扱うというよりは、さまざまな研究を総合して大まかな見取り図を提案するスタイルだから仕方ないのかもしれない。しかし、実際に技術やドクトリンを改良する「中間層」の動きに注目するなら、個人の動きをもっと追跡した議論を行なうべきではないだろうか。さまざまな資源の分捕りあいの中で、どのように確保したのか。あとは、ドクトリンや生産計画、技術開発などは一年やそこらでは動かせないものだが、そのような計画がどのようにアレンジされて、実際の戦場に適応したのか。そのようなところが大事になるように思うのだが。
 あとは、英語文献だけしか利用していないので、徹頭徹尾アメリカ視点(+イギリス視点)で、対戦した枢軸側、あるいは反対側の戦線で戦っていたソ連の事情が全然見えてこないところも問題かな。勝利の要因を考えるのに、敗戦に追い込んだ相手がどこが痛いと考えていたかを考慮する必要があると思うのだが。
 このあたりの要因から、話が微妙に平板で読み進まなかった。まあ、英語文献のリストは充実しているし、索引もあるから、引く本としてはそれなりに使えるかもな。


 本書の骨子は、1943年1月のカサブランカ会談から1944年7月近辺までに、第二次世界大戦の趨勢は決まってしまったこと。この前提となる諸課題、Uボートを制圧し海上輸送ルートを安全にすること、西ヨーロッパ上空の制空権の確立、ドイツ軍機甲師団への対抗、大規模な揚陸作戦の実施、太平洋を渡って日本に攻め込む渡洋作戦をいかに実行するか。これらがどのように解決されていったについて論じている。
 第一章は大西洋の戦い。Uボートの制圧には、大西洋全体を通じた哨戒機によるエアカバーの提供、マグネトロンによるセンチ波レーダーの小型化・普及、ヘッジホッグやホーミング魚雷の実用化、潜水艦攻撃に専門に従事する部隊の創設など戦術の改良が指摘されている。結果、アメリカからイギリスへの輸送が安全になり、大陸反攻のための兵力・物資の輸送が可能になる。ただ、なんというか、対潜作戦にひきつけて、さまざまな技術開発などが議論されていて、なんか平板な気がする。マグネトロンがどのような背景で開発され、アメリカ側でいち早く大量生産技術開発に移れたのはなぜかと言った議論が必要だと思うが。あと、本当に大事なのは、全体を通したエアカバーの提供なんじゃないかなと。
 第二章は制空権の話。バトル・オブ・ブリテンの後、英米による戦略爆撃は、ドイツ軍の強力な邀撃に遭い、一時は作戦停止に追い込まれる。そこにアメリカ製航空機にイギリスのマーリンエンジンを積んだP-51マスタングが颯爽と登場、長距離護衛機として、ドイツ軍の戦闘機戦力を撃破したというストーリー。ドイツ軍が攻撃目標の選定に失敗したと言う指摘が興味深い。
 第三章は北アフリカ戦線でのドイツ軍の壊滅と東部戦線の話。バグラチオン作戦に至るまで。地雷と対戦車砲アメリカからの車両の提供、架橋能力、カモフラージュやデコイなど欺瞞技術、さらにはパルチザン西部戦線における戦略爆撃の結果、ドイツ側が戦闘機や対空砲に大量に資源を割かなければならなかったという、西部戦線との関連性をからめた指摘も。
 第四章はノルマンディー上陸に至る、連合軍の水陸両用戦能力の向上。陸海空軍三軍種の協同や揚陸用機材の開発など、さまざまな課題を克服する必要があった。ディエップ上陸、トーチ作戦、シチリアサレルノアンツィオなどイタリア半島での上陸作戦などの先行する上陸作戦でどのような教訓を得ていったか。揚陸指揮艦の配置や上陸部隊の交通整理を担う「ビーチマスター」職の配置。ホバーツファニーズのような特殊車両など、敵前でのスムーズな上陸のためにさまざまな工夫が凝らされたこと。にもかかわらず、実際の上陸の局面では混乱も見られたこと。しかし、制空権・制海権・諜報などの優位によって、無事に遂行され、反攻の足場が設置され、ここにヨーロッパにおける戦争の帰趨が定まったとする。このあたりの揚陸作戦に関して、上海での日本軍の経験はどう受け取られていたのだろうか。なんか、ものすごく悲惨な作戦だったようだが→http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta02u8.htm
 第五章は、部隊を太平洋に移して、対日戦に際して、アメリカ軍がどのように渡洋作戦を遂行したか。海兵隊や建設部隊であるシービー、B-29エセックス、潜水艦といった要素の重要性を指摘する。また、海軍による中部太平洋での侵攻、サイパンテニアンなどマリアナ諸島を奪取し、そこからB-29による戦略爆撃を行なえるようになったことが戦争の帰趨を決したと指摘する。マリアナ沖海戦における日本軍母艦航空隊の壊滅が、決定的な戦闘だったと。しかし、このあたりなんかものすごく微妙な感じが。エセックス級の量産が決定的だったのは確かだが、アメリカ軍は戦艦も巡洋艦も山のように作っているしな。あと、ソロモン諸島での消耗戦が日本軍の抵抗力をかなり削いでいたこと、フィリピンの制圧が東南アジアの資源地帯との連絡を切断し日本の継戦能力を決定的に奪ったことはもう少し重視されていいのではないだろうか。個人的にはこっちのほうをメインルートだと思っていた。


 以下、メモ:

連合軍の艦艇が、駆逐艦護衛駆逐艦フリゲート)、駆潜特務艇(コルベット)、監視艦(カッター)、トロール船その他のごたまぜなのに、(以下略)p.48

 ここ完全に誤訳じゃね。第二次世界大戦時には、独立の「護衛駆逐艦」という艦種が存在したのだから、「フリゲート」を護衛駆逐艦と訳すのはおかしい。そもそも、日本の艦艇と、厳密に対応関係がないので訳しようがないのだが、フリゲートコルベット両方とも、カテゴリーとしては海防艦とすべきだろう。なんで、わざわざこんな訳にしたんだろう。大きさとしては、日本の海防艦と比べると、コルベットが一回り小さくて、フリゲートは一回り大きいくらいのサイズになるようだが。

 当然のことながら、この奇抜な機械はいくつかの問題にぶち当たった。予算不足、研究施設の不備。それに、やむをえないこととはいえ、イギリスの科学研究活動はほとんどが、英本土に対するドイツの空襲を探知する方策の改善に集中していた。だが、一九四〇年九月(英本土決戦の真っ最中で、アメリカはまだ参戦していなかった)、科学面での協力を話し合うために、ティザード使節団がアメリカを訪れた。この使節団は、さまざまな装置類に加えてマグネトロンの試作品を持参していた。それを渡されたアメリカ側は驚愕した。超小型レーダー開発の問題に取り組んでいた自分たちのどの手法よりも、それがはるかに優れていることをただちに悟ったからだ。ベル研究所とMIT(マサチューセッツ工科大学)に新設された放射線研究所(ラドラブ)で、製造と改良がフル回転で進められた。それでも、ありとあらゆる問題で遅れが出た――装置と操作員をリベレーターのどこに配置するのか? アンテナはどこに設置すればいいのか? そんなしだいで、センチ波レーダーを完備した航空機部隊が大西洋の戦いに参加したのは、勝敗の分け目となった一九四三年の三月と四月のことだった。p.86

 むしろスムーズにここで技術協力が進んだのが不思議だな。ある程度技術水準が近接していないと、そもそも優れていることを悟ることも、コピーもできないと思うが。このあたりの技術的背景には、もう少し言及すべきではないだろうか。

 ハリスがここで作戦を休止し、爆撃機を敵国の奥深くへ派遣するのをやめるべきだったかもしれない。ハリスがそれ以上の軍事行動を控えるべきだったことを示す強力な論拠が、ふたつある、ひとつは、むろん地理だ。イギリスの主要鉄鋼産業(シェフィールド、ドンカスター)が内陸のイングランド北部に集中しているのに対して、ドイツの重工業はドイツ西部にある、爆撃集団の飛行機が潜り抜けなければならない高射砲やドイツ空軍の夜間戦闘機の戦列は、さほど長くない。つぎの論拠は、イギリスの歴史家アダム。トゥーズが最近指摘しているように、ルール地方への爆撃は、ドイツの戦争経済にかなりの痛手をあたえていたという事実だ。戦略航空攻勢全体を批判する後世の研究者が認識しているよりも、はるかに損害は大きかった。特定の工場を精密爆撃してはいなかったかもしれないが、英空軍は戦略的に重要な工業地帯に、大量の爆弾を集中して投下した。一九四三年のイギリスの軍事行動が限定されているとアメリカの視察団が批判するのを聞いて、スパーツ米空軍中将は即座に、ドイツに直撃を加えているのは爆撃集団だけなのだと諭した。p.135-6

→Tooze,A. The Wages of Destruction:The Making and Breaking of the Nazi Economy. London:Penguin,2006.
 メモ。ルール地域へのイギリスの戦略爆撃がそれなりの打撃を与えていたと。

 兵士と水陸両用戦車が上陸すると(なかには溺れたり水没したりしたものもあったが)揚陸指揮隊長(ビーチ・マスター)が待っている。シチリアサレルノでの経験から判明したように、これは必要不可欠な異色の職務だった。この任にあたった英海軍大佐は、上陸にあたってすばらしい指揮官ぶりを発揮した。兵士を前進させ、動けなくなった車両をどかし、兵士がおりた揚陸艇はすみやかに沖に帰らせた。いってみれば、混雑した交差点で交通整理をする昔の警官のような役目を果たし、混乱しそうなその場の秩序を取り戻して、進軍の停滞を防いだのだ。そのひとりが、高名なウィリアム・テナント英海軍大佐だった。一九四〇年、テナント大佐は、ダンケルク海岸から英仏・ベルギー軍合わせて三四万人が撤退するのを指揮した。奇しくもその丸四年後に、さらに大きな部隊をノルマンディー海岸から上陸させることになった。p.309

 マスターって役職名が、なんか兵站系の役職っぽいな。

 この時期の日本の軍部の思考や政府の優先事項の判断が、どういう論理の経路をたどったのかを理解している欧米の読者は、いまもってほとんどいない。決定的な行動は、一九四一年一二月七−八日の真珠湾、フィリピン、香港同時攻撃ではなかった。重要な軍事行動は、一九三七年夏の日本軍の中国本土侵攻だった。それ以降の出来事は、ある意味では軍事作戦上と外交上のたんなる成り行きだったともいえる。ナチスドイツとの関係の強化、ソ連に対する局外中立の維持(ノモンハン事件にもかかわらず)、一九四一年のフランス領インドシナ南部への進出、オランダ領東インドの油田の奪取。香港、シンガポール、フィリピンの英米軍基地を奪うのも、作戦上の必要に迫られてのことだった。そして、真珠湾攻撃は、日本の南方進出をアメリカに阻止されないための、最後の安全保障上の布石だった。だが、日本軍部の観点では、肝心な舞台は中国だった。p.334-5

 「大日本帝国」全体からすれば、日中戦争も準備していた戦争とは言い難いところがあったようだが。で、どっぷりと泥沼に浸かって、のたうちまわったのが、真珠湾攻撃に至る流れだったと。まあ、ダッチロールを論理的に理解できるわけないわな。

 シービーの最大の功績は、米海軍建設部隊(シービー[大隊単位]を統括する部隊)の八〇パーセントが配置されていたアジア−太平洋戦域で見られる。統計の数字を見ただけでも気が遠くなる。太平洋だけで、この勝利をもたらした技術兵たちは、主な簡易滑走路一一一本、桟橋四四一本、ガソリン一億ガロン(三億七八五〇リットル)分の貯蔵タンク、一五〇万人分の兵舎、傷病者七万人分の病院を建設した。戦歴はさらに瞠目に値する。南西大西洋――疫病が蔓延するボラボラ島――に派遣された最初の大隊は、珊瑚海海戦で米国の艦船と航空機が使用する燃料タンクを、なんとか間に合うように建設した。ガダルカナルでは、シービーが海兵隊とともに上陸して、夜を日についでヘンダーソン飛行場で爆弾の漏斗孔を埋め、日本軍の陣地をブルドーザーで突き崩した。マッカーサーの南西太平洋方面軍に同行して、パプアニューギニアからソロモン諸島、ニューブリテン島アドミラルティ諸島、ホランディア、セレベス、フィリピン中部へと渡っていった。p380-1

 なんか本当に物量の差がすごいな。日本の海軍設営隊も頑張ったようだが→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%A8%AD%E5%96%B6%E9%9A%8A

 太平洋の潜水艦戦に言及する場合、日本海軍が潜水艦の運用を誤り、商船の護衛を怠るとという致命的な失敗を犯したことを指摘しなければならない。日本海軍が明治初年から英海軍の長所をほとんど模倣してきたを思うと、不思議でならない。それに、第一次世界大戦と大西洋の戦いから、水中の戦いの戦訓はじゅうぶんに得られたはずだ。しかも、潜水艦そのものにはなんの問題もなかった――日本の潜水艦の大多数は、アメリカの潜水艦とおなじようにかなり大型で、航続距離はきわめて長く、世界最高の水準の「長槍」魚雷(九三式魚雷)を装備していた――が、用法が間違っていた。独立して行動し、商船を積極的に攻撃して撃沈するのが潜水艦の自然な役割なのに、軍令部はそれをあからさまにないがしろにした。さらに戦争末期には、大本営が潜水艦の任務をいっそう歪めた。巨艦主義の海軍上層部は、敵国の商船ではなく軍艦を索敵して破壊することに潜水艦を使うという妄念に捉われていた。戦争初期は何度かそれに成功した。ことにソロモン諸島のような入り組んだ水域では効果があった。空母〈ワスプ〉はまさにそういう状況で撃沈され、空母〈ヨークタウン〉もミッドウェーで大破したあとで潜水艦にとどめを刺された。p.389-390

 うーん、商船攻撃が「自然な役割」というのはどうだろうか。あと、大戦最末期にも重巡インディアナポリスを撃沈したりしているんだよな。

 いくつかの章の草稿をまとめたところで、ようやく明らかになったことがあった。たとえば、ドイツは陸軍も空軍も、フランス、ロシア、地中海というように、せわしなく部隊を移動していたが、それをくまなく述べる必要があった。だから、第二章、第三章、第四章のそれぞれで言及した。そうすると、大西洋と北極圏の海上交通路をめぐるイギリスの戦いと、ドイツ爆撃作戦と、東部戦線の赤軍の防戦と攻勢が、深く噛み合わさっていることが見えてくる。大本営が陸軍師団の大半を中国中部と南部に割りふり、太平洋を堅持する能力を損ねていたことに触れたのも、それとおなじことだ。だが、個々の軍事行動にこだわる歴史家は、めったにそういう部分の結びつきを描かない。本書が網羅しているような五大戦域を幅広く眺めて、つながりを考察するということをしない。こういうふうに比較してみると、多方面での戦争を遂行しなければならなかった国が直面していた膨大な作業がよくわかる。歴史上のさまざまな戦争でも、指導者たちがおなじようなやりくりをしていたということが、もっとよく理解できるようになる。p.411

 その、膨大な作業を史料に基づいて再構成するのが大変なんだよな。あと、本書のレベルだと、相互の関連を明確にすると言うほどにはなっていないような気がする。