宮下規久朗『欲望の美術史』

<オールカラー版>欲望の美術史 (光文社新書)

<オールカラー版>欲望の美術史 (光文社新書)

 新聞連載を整理したもの。美術表現に、さまざまな身体的、社会的な欲望が動いてきたかを描く、エッセイ集。すらすらと読めて、楽しい本。
 第一章が直接的な欲望、第二章が表現を駆動するエネルギー、第三章は作り手の自己表現の欲望を、最後は信仰や承認されることと言った原動力。信仰の持つ力って、やはり大きいんだな。
 不倫関係の泥沼さえ創作の糧にしてしまうピカソやロセッティの業の深さ、あるいは多産な芸術家ほど金銭にこだわる姿。金銭と虚栄のところの、没落貴族バルバロ家の話が、なんか倒錯しまくっていて、単純な成金趣味より印象的。
 第二章の、本物そっくりということが評価される話や追悼のムサカリ絵馬も興味深い。
 第三章は作り手や芸術表現における、自己との向き合い、あるいは他者の評価がもつ意味。アール・ブリュットのような、他人の評価を必要としない、自分自身のための創作。逆に、他者から評価されることが重要なスタイルの芸術。自画像に投影される自意識、顔よりも意識される刺青、集団肖像画、歴史画の話など。「皇女ソフィア」が印象的だな。共産主義政権のイメージ戦略。個人崇拝的なプロパガンダを行なう政権はアレと。ここが一番おもしろかったかな。
 第四章は、信仰による創造の促進と逆に破壊活動を惹起してしまうことについて。やはり信仰や死を恐れる気持ちってのは、パワーがあるな。逆に、宗教的価値が揺らいだときに、熱狂的なイコノクラスム活動を引き起こすことになると。また、権威を持つような名作は、破壊やそれでなくとも揶揄の対象になりやすい、反権威の心性。戦争画の話が興味深いな。私的・非実用的なものと見なされてきた美術が、国家の必要に動員された時に、画家の熱狂を呼び覚まし、実力以上の迫力のある作品を生み出させる。このあたりの戦争協力の問題は、婦人運動ともつながるような話なのかもな。戦争協力を通じて、自己の立場を確立したい欲望。
 さまざまな形で求められ、造られてきたさまざまな芸術品のジャンルが興味深い。こういう「社会的役割」がある作品の方が、自意識主体なモノよりおもしろいな。


 以下、メモ:

 一方、伝統貴族もこうした成金たちに負けじと、名誉と伝統を見せつけようとした。
 サン・モイゼ聖堂からほど近いサンタ・マリア・デル・ジーリオ聖堂は、バロック様式の豪華な教会で、伝統貴族バルバロ家の寄進で建てられた。ファサードはバルバロ家の記念碑で埋め尽くされている。入口上には、彫刻家ジュスト・デ・クールの手になる当主アントニオ・バルバロの像が設置され、入口の左右には彼の兄弟の彫像が並び立つ。周囲には、彼らが参加した海戦や活躍した都市の地図の浮彫がびっしりと施されている。
 バルバロ家はフィーニ家とちがって由緒ある名門貴族であったが、この頃にはすっかり権勢を失い、廃絶寸前であった。アントニオ・バルバロの像は指揮棒を握り、海軍司令官のような服装で表現されているが、実際にはそのような地位についたことはなかったという。つまり、このファサードに表現されたのは、没落貴族の精一杯の虚勢であったのだ。p.40-1

 成金の記念碑より、歪んでいて興味深いな。しかし、没落しかけていても、教会をひとつ立てるだけの財産はあったんだな。

 それは、本書でもとりあげた生人形や刺青とともに、近代になって日本に美術という概念が西洋から移植されたときに排除されてしまった民衆的な芸術であった。風雨にさらされてきた寺社の絵馬も、美術館以前の代表的な公共芸術であったが、いまだにきちんと研究されていないものが大半だ。純粋美術の展示場として設置された美術館という近代的な制度にこれらを展示することは、美術館の限界をあきらかにしてしまう一方で、美術館の可能性を拡大することになるだろう。
 絵金の芸術は、中央と地方、近代と前近代、純粋芸術と大衆芸術といった区分を突き崩し、美術館や芸術のあり方の再考を促してやまないのだ。p.162-3

 こういう大衆的な芸術の方がおもしろかったりするしな。絵馬と言えば、古い絵馬の上に、「復元」と称して稚拙な絵を上書きする事例があるけど、ああいうの古いのはどっかに保存して、別に新しくつくった方がいいよなあ…