宮下規久朗『刺青とヌードの美術史:江戸から近代へ』

刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ (NHKブックス)

刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ (NHKブックス)

 「芸術として見られることを意識し、理想化された形体(p.1)7」であるヌードが、その伝統のなかった日本でどのように受容され、その結果、身体感覚がどのように変わっていたか、それに伴って裸体表現がどのように変わっていったかを追求した書物。
 近世の日本においては裸体習俗が一般的であり、民衆は半裸で生活していた。裸体を見ることが多かったため、単純な裸体にエロティシズムを感じなかったこと。その結果、肌の白さや肌理など、感触的で観念的なものがが重視されたと指摘する。また、第四章では、日本では「裸体は見えているのに見てはいけないもの」であり、見えども見えないものであった。これが、近代に入り、異なるヨーロッパ人の「視線」によって変容する。ヨーロッパ人の圧力もあり、裸体や体の一部露出をも強力に禁じることになる。裸体の習俗が変換するには時間がかかったが、最終的には、西洋的な裸体そのものに性的なものを感じる羞恥心が内面化されるにいたった。裸体そのものが性的な意味を持つようになった。
 このような状況になる前の裸体表現の伝統として、菊池容斎の『塩谷高貞妻出浴之図』のような歴史画の系統、そして松本喜三郎らの生人形のリアリズムに満ちた表現を紹介する。これらは、その後の美術の流れに影響を与えることなく、途絶える。また、春画の系統の引く裸体石版画や横浜写真、月岡芳年の残虐趣味の錦絵なども、社会の変化と取り締まりのなかで消滅していく。
 一方、洋画のヌード表現もなかなか日本に定着しなかった。西洋的なヌードが最初から性的なものとして、禁圧の対象になり、ヌードが「特別室」に押し込められるなど、美術界のなかでしか存在を許されない状況にあった。また、日本人の身体のプロポーションとヨーロッパの理想的人体プロポーションであるカノンをすり合わせることに苦労している。確かに、本書で紹介されている生人形や横浜写真を見ると、当時の日本人のプロポーションが絵画に映えないものであったことは分かる。結果として、舞台の設定にも苦労している。ヌードを崇高なものと猥雑なものに分け、崇高なヌードを目指した日本の洋画家たちの作品は、ぎこちなく不自然な作品にあふれることになる。
 結果としては、ポルノグラフィの手法を咀嚼し、芸術として力まない戦後の写真作品の方が優れた裸体表現を多く出していると指摘する。また、終章において、「芸術」の名のもとに、ヌードの取り締まりが牽制されるようになったことが指摘されるが、芸術の特権性が低下してくれば、どのような反動があるのだろうか。実際、保守的な圧力は強まっているわけで。


 第五章は刺青の歴史と文化。魏志倭人伝に描写されるような刺青の風習は、古代から中世にかけて途絶えるが、近世にはいって復活してきたこと。18世紀後半以降の『水滸伝』ブームと19世紀の歌川国芳の刺青画が、現在に至る刺青の発展のスタートになったと言う。その後、明治の習俗の取り締まりで衰退。反社会的な象徴として存続するが、新たに見直されつつあるという。また、刺青の機能として、文様と一体化して人格に影響を与える効果や芸術としての意義を論じている。


 以下、メモ:

 浮世絵の裸体美人の場合、類型化された容貌と同じように、観察に基づいているというより、画面効果に人体描写が従属させられており、図式化された線描によって身体の動きや感情が表現されている。
 それらは堂々と肉体を誇示するのではなく、ケネス・クラーク流にいえば、突然陽のあたる場所に引き出された球根のように、弱々しい肌を見せて、凝視をためらわせるような繊細で華奢な裸体である。日本では、西洋のヌードが追求した、女性の脚の長さや頭の小ささといった八頭身のプロポーションに見られる線的な美が認識されることはたえてなかった。そのため、貧弱な胸、長い胴、短い脚に小さな手足といった日本人の体つきがそのまま描かれているが、にもかかわらず、今なお独特の色気を感じさせるのは、そのはかなさのゆえであろう。日本では古来、「色白は七難隠す」といわれたように、女性美には形態の美よりは、もっぱら肌の白さや肌理など、面の美が求められたのである。肉筆画では胡粉を駆使して、浴後の艶やかな肌あいの美があますところなくとらえられている。それは視覚ではなく、むしろ触覚的な美であり、それゆえに造形においてはそれほど多く表現されたわけではなかった。p.42-3

 また、春画では解剖学的な正確さは無視され、アクロバティックなポーズや不自然な人体が見られることも多い。スクリーチ氏は、春画の男女は衣服によって分節化されており、それによって、無理な体勢を自然に見せようとするほかに、頭部と性器を分離して、性的な罪悪感など「人に反発を起こさせる絵の力を軽減する」効果があったと指摘する。
 スクリーチ氏がいうように、春画では身体が喪失しており、頭や性器が分節化されていて全体を形づくっていないのは、日本では性愛の観念が、視覚的なイメージだけでなく、触覚的で観念的なものに基づいていたためと見ることもできよう。養老孟司氏は、春画における身体の歪曲は、性交時の人間の脳内における生殖器の大きさを考慮して描いたものであるためという。つまり春画は、性行為のイメージや女性の秘部の美しさを示したものというよりは、触覚や妄想も含めた欲望の世界を開示したものであったといえるだろう。p.47-8

 春画やあぶな絵では、断片的に見える胸や腿の美しさが強調されるものもあり、それらには強い性的な視点が見られる。西洋でも、クラークがあきらかにしたように、ヌードとエロティシズムは不可分の関係にあった。どれが、エロティシズムを前面に押し出すことなく、美という観念と結びついて発展したのが女性ヌードであった。エロスを押し出したポルノグラフィも生まれたが、そこに芸術的な発展は見られなかった。一方、日本では春画というポルノグラフィがほかの美術表現と同様の様式的洗練をとげたといってよい。p.48-9

 最初はもっと胸や太股をあらわにしたスケッチを描いていたにもかかわらず、結局はそれらをすべて覆った姿にしてしまった。それは、堂々たる裸体よりも、少し脱ぎかけたくらいの姿態のほうが女性美の表現として自然であり、感応的であるという古来の美意識を表明したものでもあった。p.154

 このあたりの性に対する感覚や描きかたというのは、結構現在に受け継がれているようにも感じるな。エロゲの絵の表現方式には、西洋的というか視覚的な志向と同時に、江戸時代の春画に見られるような触覚や妄想も反映したものであるように感じられる。また、ディフォルメのやり方にも、感覚的な共通性がありそうな気がする。あと、最後のは、チラリズム志向の形で現在に確実に受け継がれていると思う。

 若桑みどり氏は、《朝妝》は、「裸体統御の西洋的なシステム(検閲と許可)も一緒に輸入した」とし、「検閲をくりかえしながら、権力は崇高なヌードと猥褻なヌードを上下に二分し、民衆のメンタリティーをコントロールすることに成功していった」と述べる。検閲する側も、ヌードを掲げる黒田の側も、ともに近代的な力であり、「彼らは共同して、前近代的な女性イメージを近代的なそれにすり替えていったのだ」とする。p.109

 この変容には注意する必要があるだろう。

 しかし、西洋人のほとんどにとっては、混浴は羞恥心に欠けた軽蔑すべき風習と思われ、これを気にした政府は何度も浴場に男女の区別を設けさせて混浴するのを禁じ、また裸体のまま浴場に出入りするのを禁じた。混浴に不快感をおぼえた西洋人たちが、外交的にもはたらきかけ、政府に混浴の取り締まりを執拗に要請したようである。その結果、肌脱ぎの禁止と同じく、横浜から始まり、東京やそのほかの地で混浴が法的に禁止されていった。p.123

 西洋人は、日本のセクシュアリティにとって裸体が性的欲望と結びついていないことに衝撃を受けたが、西洋の性的身体の観念は徐々に日本社会に広まっていった。開港直後から西洋人たちはもの珍しさから好んで浴場に出かけ、そこで女性たちの裸体をしげしげと眺めた。日本の基準では、裸体をさらすのは問題ないが、それを見つめることは不道徳な行為であったのだ。他人の裸体は、見えていても見えないようにふるまう、つまり「間接的なまなざし」が必要とされたのであり、じろじろ見たり直視したりすることは無作法であった。p.128-9

 むしろヨーロッパ人の方が下劣な感じだな。あと、儀礼的無関心の重要性。ググるストリートビュー儀礼的無関心をつなげた議論もあるようだが、そういえばあれも無遠慮な視線だな。

 長く見つめられたり凝視されたりすると「恥」が生まれ、とくに公衆浴場や温泉でそれが起これば、その羞恥心はずっとひどくなったとデュルは分析しているが、日ごろは裸体でうろついている労働者でさえ、モデル台に乗って多数の人間から凝視されることには耐えられなかったようである。しかし、西洋人の凝視や政府の禁圧によって、伝統的な間接的視線は消滅し、それまで社会の表に出ることのなかった羞恥心が植えつけられ、隠されるようになった裸体は性的なものに一元化されていったのである。p.131

 視線の魔力って感じもするな。

 春画に代表されるポルノグラフィとしての裸体表現も、近代以前の日本美術を特徴づけていた。こうした性的な視点は、近代以降も伏流として、ポルノ写真や挿絵など、アンダーグラウンドの世界や大衆文化を通じて現在の華々しい性文化にまでつながっていると見ることができる。だがこの豊かな鉱脈が「美術」と出合うことはなかった。近代の画家たちの多くが、小出楢重の感想にあったように、性的な要素を最初から排除しようと努めており、春画的な性の解放もむきだしの欲望の視線も、美術の表層に現れることはなかったのである。ただし、この禁欲的な視線の間から自然なエロティシズムが漏洩したとき、その裸体画は傑作となっているように思う。p.162


 もっとも、江戸の美意識では、むやみやたらと刺青を見せるのは無粋だとされ、なにげない動作のときにちらりと見え、また祭りや喧嘩のときのみあきらかになるのがいきだと思われた。日本の刺青が南洋のそれと違って、人目にふれる顔や手などにはほとんど見られず、主に衣で隠される部分に入れられていたことは、日本の刺青の顕著な特徴としてすでに明治期にベルツが指摘している。日本の刺青は、普段は見えなくても時と場合によっては肉体を見せる装置であったことはまちがいない。刺青を入れた者はときに刺青をしっかりと見せたがり、そのとき人々はそれを凝視するのが許されるのであった。ただしその場合、肌の表面に浮かぶ刺青のみを鑑賞するのではなく、刺青を背負った人間の身振りや人格も含めた全体とともに味わうものであった。こうして日本人は、刺青によってはじめて肉体を美的評価に値する対象に昇華させ、観賞するに値するものとしたのだった。p.197



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