上田篤『日本の都市は海からつくられた:海辺聖標の考察』

 うーん、改めて全体の流れをまとめようとすると、都市と「海辺聖標」の話が全然繋がらない。あと、方法論的にも疑問が。古い時代からの、海辺から見える、陸標となる場所を論じているのだが、実際のところどうなのだろうか。沖縄の民俗を、日本の古態が残ると見る考え方は植民地主義的な考え方ではないだろうか。また、ヨーロッパと日本を安易に比較しているようにも感じる。パーツパーツは魅力的なのだが…

 高校を卒業してから二八年のあいだに、大阪の町はずいぶんかわった。かつて「水の都」とうたわれた町は、もはや「車の都」であった。京都の町にはほとんどない歩道橋が、大阪の町に乱立しているのをみて、なんと非人間的なところだろう、とおもった。そんなある日、大阪の南の雑駁さと喧噪のいりまじった市街をあるいていて、わたしはふと、大阪は商都などといわれるが、じつは漁村を大きくしたような町だ、とおもった。曲がりくねった迷路のような道と、零細な家々、しかしときに威勢のいい大漁旗のはためく漁村に、大阪はそっくりにおもえたからである。そうすると、京都は、さしずめ農村を大きくしたような町だ。農民は、豊作で金がはいると、家や蔵をりっぱにする。どうように、京都の人々もお金を手にすると、家や蔵につぎこむ。したがって京都の町は美しい。いっぽう漁民はというと、大漁で金がはいったら、飲めや歌えで散じてしまう。大阪人もその伝で、商売でもうかっても、あまり家や蔵に手をいれずに、遊んで食いだおれてしまう。したがって大阪の町はいつまでたっても貧しい。そうかんがえると、まえからふしぎにおもっていた京都と大阪の町の人情や風俗慣習、都市の景観などのあまりの違いも、なっとくできた。そうだ、大阪は漁民の町なのだ。まえがきp.2

 おもしろい見方。

 そもそも、こういうようなことばをつくりだしたのも、もとはといえば、わたしの専門である都市計画にたいして、長年の疑問があるからだ。というのは、日本の都市計画は、明治いらい、西洋のセオリーにしたがって、その制度が整備され、実践が行われてきたが、じつは、その都市計画が、日本の現実とは、なかなかあいいれないのである。
 いまからおよそ六〇年ほどまえの昭和八年(1933年)のこと、イギリスの劇作家で、かつ、文明批評家のジョージ・バーナード・ショーが日本にやってきたことがある。神戸の地に上陸したかれは、新聞記者の質問にこたえて日本の印象をいろいろかたったなかに、日本の都市は、都市計画がなくてメチャメチャだ、といった内容のことがあった。そのメチャメチャな町とは、かれが日本の第一歩をふんだ神戸のことである。神戸は、明治のはじめに、外国との貿易のためにヨーロッパの都市を範としてつくられた町だ。いまも、かつての外国居留民たちの異人館がのこされている。かんがえてみると、京都とか、大阪とか、あるいは東京とかいうような古くからある町をメチャメチャだ、というのならわからないでもないが、神戸というもっとも西洋的でハイカラな町をメチャメチャな町だ、といったことは、とうじの日本人にはたいへんショックであった。そして、ショーが嘆いた日本の町のこのメチャメチャさは、第二次大戦後の今日も、基本的にかわっていない。
 ところで、もうかれこれ三〇年もまえのことである。わたしは「中央公論」に寄稿されたアメリカの社会学者のネイザン・グレイザーの「ニューヨークと東京とを比べると」という一文をよんで、たいへんショックをうけたことがある。グレイザーは、ニューヨークと東京をくらべると、東京のほうがずっといい町だ、というのだ。ニューヨークや、あるいはイギリスのニュータウンなどは、近代都市計画によってつくられているが、それらはおもしろくもおかしくもないうえに、不便きわまりない。それにひきかえ、東京の町は、安食堂もあれば、高級料理店もあり、日常の衣料品店もあれば、しゃれた洋装店もある、というぐあいに多様性に満ちている。また、住宅地が階層によってわかれることがすくなく、さらに横丁や路地もおおく、道路にいろいろ変化がある、あちこちにおもいがけない光景が展開し、面白い風物がいっぱい目につく、というのだ。
 つづいて、わたしは、ジェーン・ジェイコブスというアメリカの女性社会学者の『アメリカ大都市の誕生と死』(黒川紀章訳、1961年、鹿島出版会)という本をよんで、わたしの眼前で、近代的な都市が音をたてて一挙に崩壊してゆくのを感じた。彼女は、近代都市は美しいかもしれないが、幾何学的につくられているために、人目のとどかない死角がいっぱいあって、ために犯罪がおきやすく、やがて人々が住まなくなるという。それにひきかえ、ごちゃごちゃした下町では、いつでもどこでも人にみられているので、みしらぬ人もすぐに顔をおぼえられて、犯罪をおこそうにもおこせない。ニューヨークでも、下町では犯罪はすくなく、犯罪がおきるのは、いつでもきまってモダンな住宅地かビル街なのだそうだ。
 このような議論にであったわたしは、大学で学生たちに、どういう建築や都市の話をしたらいいのか、すっかり悩んでしまった。いままで悪いとされたスラムのようなメチャメチャな町のほうがよい、というのだからだ。すると、日本の町を「スラム・クリアランス」しよう、という近代西洋の建築計画や都市計画はいったいなんだろうか。また新しい「スラムのような町」をつくらなければならないとしたら、それにはいったいどういう方法があるのだろうか。p.3-4

 実際のところ、幾何学的な原理の都市計画ってのは、権力者とか国家の威信を表現するためのものだからな。近代に入って都市が急激に膨張した時代には、インフラ整備などで都市計画や区画整理が正当化されたかもしれないが、膨張が止まってインフラも一通り足りている状態では、上からの「都市計画」は害悪でしかない。少なくとも「民主的」な考え方ではない。
 あと、ネイザン・グレイザーの文章は「ニューヨークと東京を比べると:東京の都市計画に忠告する 」『中央公論』77-1、1962.1

 かねてからふしぎにおもっていたことだが、所用で東海道新幹線にのって、京都から東京へむかうときなど、なにげなしに車窓から町々や田園の風景などをながめていると、ポコッポコッとした緑が目にとまる。その緑のほとんどが、社叢、すなわち鎮守の森なのだ。日本では、山にゆけば木がたくさんはえているが、平地には、むかしからほとんど森がない。みな田んぼや畠になってしまっているが、その平地にあるわずかな森が、たいてい鎮守の森なのである。よくまあ、この国土総開発の時代に、こんなにもたくさんおこっているものだ、などといつも感心する。感心するだけでなく、この鎮守の森が日本の集落のランドマークではないか、ともおもい、東海道新幹線にのるたびに、それをみるのを楽しみにしていた。そして、楽しみにするだけでなく、わたしの勤務先が、京都の大学の建築学科から大阪の大学の環境工学科へかわったのを機に、鎮守の森の調査をおこなうこととしたのである。1978年春のことである。p.7

 確かに立派な木があるところって、大概神社か、古い家があるところだよな。住宅地の中だと、離れたところからも、あの辺に神社があるなとか分かる。最近は、伐り払われて乾燥した神社も多いけどな…

 アメリカ・インディアンは、アメリカ大陸の各地で、それぞれの地の食料や環境に適合して、さまざまな文化をつくりだした。たとえば極地に住むイヌイット族やユイット族、すなわりエスキモーは、カリブーやアザラシを食べ、アザラシの皮を身にまとう。東部森林地帯に住むイロクォイ族は、鹿を食料にし、鹿の皮を衣服にした。ロッキー山脈東麓の高原地帯に住むコマンチ族は、バッファローを主食にし、その皮を身につけ、またその皮で、ティーピーといわれる円錐形のテントをつくった。コマンチ族がバッファローの皮服を身にまとうときは、防寒のためというよりは、そうすることによって、バッファローの精力を見につけうる、と信じられたからだ。こういう信仰的感情は、大なり小なり、他のインディアンについてもいえる(ルイス・モーガン著、上田篤訳『アメリカ先住民のすまい』1990年、岩波書店)。p.169

 こういう、何かを食うことによって相手の力を身につけるとか、遺体とカニバリズムとか、日本人のカニバな話をどこかで読んだ気がするんだが、思い出せない。高橋繁行『葬祭の日本史』asin:4061497243だったけか、下山晃『毛皮と皮革の文明史:世界フロンティアと掠奪のシステム』 asin:4623041301だったっけか…

 これは、西洋美術でいう美や調和とは、だいぶちがうのではないか、西洋美術における美観論や調和論では、だいたいにおいて主従というものがはっきりしている。それに、いつのばあいにも、主をもりたてるために従は主に同化し、あるいは主をひきたたせるべく異化する。色彩でも、赤色にたいしてオレンジ色を配して同化する調和もあれば、赤色にたいして緑色をもってきて異化する調和もある。だが、この今出川御門からみる景観は、これらの建築がたがいにまったく違う種類のものなので、おたいがいに同化して調和するということはないし、かといって、要素が三つも存在するので、異化して破調、あるいは対照の妙をみせる、ということもむずかしい。対照というのは、通常、ふたつの要素のあいだのことだからだ。
 すると、こういう景観の構造をなんとよんだらよいのか。たとえば、室町時代の座敷飾りの「三幅一対」日本庭園の石組にいう「真・流・受」あるいは生花にいう「天地人」の空間に照応するのかもしれない。つまり、天と地と人という、おたがいまったく異質なものをもちいてひとつの空間にしてしまおう、という技法である。建築史家の伊藤ていじは、天地人の原理について「形のちがった三つの要素を使って三次元的に動的な調和をとる技法」といっている。そういったものに近いのであろう。たしかにここでは、およそ異質な三つのものの主従関係が、いれかわったり、バラバラになったり、対比をみせたりする。そういうダイナミズムと、その変化がおもしろい。ここでは、美というより、あるいは調和というより、面白さやおかしさ、ときには戸惑いや、緊張感といったことのほうが、人々の心をとらえるのだ。
 これが西洋の建築や都市となるとどうだろう。たとえばアクロポリスの丘のうえにあるパルテノン神殿は、どこからみてもつねに主役である。アテネの町の他の建築や広場が、それにとってかわることはない。また、ヨーロッパの古い町のカテドラルをみても、それは絶対的に町の主役であって、町のその他の建築が主役になることはない。カテドラルのとなりに、高層建築やアラブのモスクがたつ、というような光景はほとんどみかけない。ぜんぜん似つかわしくないものははじめから除外される。p.199-201

 今日、日本の町並景観について論ずるとき、その中心になる考え方は、調和論である。しかし調和論では、日本の町並景観を律することはできないであおる。なぜなら石造やレンガ造を原則とするヨーロッパの都市とちがって、木造でできている日本の町は新陳代謝がはげしく、たとえ、いま調和のとれた建築物をたてたとしても、数年あるいは数十年先には、周囲はどうなっているかわからないからである。とすると、新陳代謝のはげしい日本の町では、調和論にしたがって、未来永劫にわたってスタティックな理想をつくりあげることは、原理的にできない相談なのだ。日本の町の景観を論ずるなら、それは調和論ではなく「競争論」ということになるのではないか。p.202

 安易に文化論に走るのは考えもの。そもそも近世の城下町は天守閣を中心とした全体の調和を考えた可能背が高い。江戸末期の町並の写真を見ると、そこでも建築様式の調和が見られる。確かに、日本の都市計画は、モザイク的な単位の組み合わせという性格が強いようだが。
 そもそも、現在の日本の都市景観が調和を失ったのは、近世都市に、近代の都市計画と洋式建築、さらには戦後の鉄筋コンクリのビルと、違うものを無理やり載せて行った、歴史の所産。そこをもっと注意すべき。今出川御門、同志社大学相国寺三者の景観が、何とかまとまるのは、そもそもの近世の町並の枠組みが壊れていないからと考えるべき。近世の都市の構造に、近代の大学を治めたからこそ、なんとか収まっている。もともとの公家の邸宅などの、枠組みがあったのではないかと検証すべきだろう。
 現在の都市景観の問題は、従来の近世からの都市構造を無視して、「近代的都市計画」とやらに則って、区画整理や大型のビルを建てていること。その上で、都市計画の法制度に景観を考慮する規定がないこと。これに因っている。そもそも、戦後の都市は、「景観」を論じる以前のところにある。