『“再発見”街中の名城:廃城をゆく7』

 タイトルの通り、街中に溶け込んだようなお城を探訪しているムック本。都市内に残る遺構を訪ね歩く趣向。こうしてみると、熊本城なんかはきれいに残った方なんだな。軍用地として留保されなかった土地は、学校や役所、文教施設、公園といった近代的都市施設の場として利用される。本丸はそれなりに残されるが、二の丸、三の丸の堀は埋められて、都市化されている場合が多い。ここいらは、熊本城の惣構えがだいたい撤去されているのと同様か。


 巻頭特集は江戸城小田原城、豊臣期大阪城の惣構えの探索。小田原城の惣構えは、意外と残っているのだな。一方、近代都市になる過程で門などが撤去されている江戸城、徳川期江戸城建設のための破壊と近代都市化の二重の破壊を経ている大阪城。つーか、大阪城の惣構え、結構小さいな。そして、大砲の出現によって、本丸を端っこに置いたということ自体が弱点になってしまっていること。


 本文は、「町と一体化した城跡」、「市民に愛される城跡公園」、「神社仏閣と同居する城跡」の三章構成。


 第一章は、様々な都市施設が設置された城跡として、水戸城、前橋城、飯田城、福井城、桑名城御土居、日出城、鹿児島城の8つの城が紹介される。この中で、実際に行ったことあるのは京都の御土居と日出城だけかな。
 こうしてみると、前橋城の破壊っぷりが印象的だな。利根川沿いの土塁と門の遺構が残るだけ、地図を見てぱっと見、城があったことが分からない感じに。あと、航空写真を見ると、駐車場だらけになっているけど、それだけ都市が空洞化しているって事なのかな。古い航空写真だと、普通に家が並んでいるし。建築規制がかかって、建物建てたくないとか。
 同じく平城の福井城は、なんでか本丸の石垣だけはきっちり残っているのがおもしろい。おかげで、福井県庁は、もっとも防御力が高いとの呼び声が高い。こちらも、それ以外は、北の外郭線が読み取れる程度か。
 水戸城、飯田城、日出城といった丘陵地の城は、ある程度、大規模な堀などの輪郭線が残っている感じか。飯田城は、北の谷の向こうにも防御施設を配しないと、鉄砲だと打たれ放題だな。


 第二章は城跡公園として整備されている城。久保田城、黒羽城、勝浦城、深大寺城、鈴岡城、吉田城、水口岡山城赤穂城徳島城、横武城、一宇治城の11城。
 郊外の城跡が公園化されているパターンが、黒羽城、勝浦城、深大寺城、鈴岡城、水口岡山城、横武城、一宇治城あたりか。深大寺城、主郭は意外ときれいに残っているのが興味深い。正木氏の城勝浦城は、侵食が激しい。そして、佐賀の横武城はクリークに囲まれた景観がそのまま公園化されているのが興味深い。
 久保田城、徳島城は、都市中心部だけど、小高い丘陵の上に築かれたために、公共用地としても使いにくかった感じか。愛知県豊橋市の吉田城は、軍用地として使われ、戦後公園化。
 赤穂城はガッツリ、堀が残っているけど、ここ、どうしてきっちり残ってるのか不思議だなあ。1960年代の航空写真を見ると、耕地と住宅、そして本丸には学校らしき建物があるから、その後、撤去して公園化したのだろう。堀もかなり再現したもののようだ。それだけ、城に思い入れがあったということなのかな。岬状の土地で、ガンガン公共施設を建てるような立地じゃなかったというのもありそう。


 第三章は、中心部が神社仏閣として利用されている城の紹介。鶴ヶ岡城、足利氏館、躑躅ヶ崎館、末森城、小浜城、久留米城玖島城の7城。
 鑁阿寺は、城館として使われた期間よりも、お寺だった期間のほうが、明らかに長いだろう。方形の館が、今もきっちり残っているのがすごいなあ。
 あとは、だいたい、旧藩主を祀った神社が設置されて、城の遺構が保存されている感じか。武田氏の城館跡を、近代には行って神社化した躑躅ヶ崎館は、土の城として異彩を放っているなあ。すこし、谷に引っ込んだところにあるから、あまり壊されなかったのかねえ。あるいは、近世にも、破壊が憚られる雰囲気があったのか。甲府城はまた、別に作られているのも影響しているだろうなあ。あと、小浜城の立地が、なんかすごい。小浜って、まさに浜に発達した港湾集落なのね。
 織田信秀から信勝が本拠とした末森城は、16世紀から城山八幡宮が存在したという点で異彩を放っている。
 中心部が神社となっているという点では、熊本の八代城も同様だな。


 それぞれの章末に、他にもいろいろな城が紹介されているけど、いちいち城を地図で調べる余裕がない…


 モノクロページは「駅チカランキングTOP20」「東海道新幹線から見える全14城を徹底ガイド」「消えた伏見城を追え!!」「近代日本の『キャッスルスケープ』」といった記事が並ぶ。指月城から木幡山に移り、関ヶ原合戦で消失した後、再建されるという経過をたどった伏見城明治天皇の陵墓となって、中心部の遺構は良く残っているけど、見られない、と。地震で崩壊したのは指月城の方だったのか。
 最後の記事は、近代に入ってからどのように見られたかの話。城が機能を失った中、象徴性のある天守・本丸だけが保存可能だったという側面もある。あるいは、戦後の再建天守では、むしろコンクリート造が望まれた側面があるというのが興味深い。