文献と発掘調査から明らかにする戦国期小田原城の姿、そして北条氏の指向。
寛永10(1633)年の寛永小田原地震で大被害を被って、改装されたというけど、全体的なプランに関しては、あんまりいじられていない感じなのかな。建物や石垣は、当然大被害をこうむっただろうけど。大型の堀や城下町の構造に関しては、大きな変更を行っていない。それでも、以前の構造物が倒壊して、近世の天守閣が建てられると、印象は大きく変わっただろうな。戦国大名北条氏の首都から、関東の西縁の都市という性格の変化、門や天守の建て替えというのは、そこに住んでいる人にとっては、地図で見る現代人以上に変化が大きく感じただろうけど。
あと、小田原の陣で有名な惣構、ほんとに戦国期最末期の所産なのね。
鎌倉時代後期あたりに、東海道の宿場町、水路の結節点として、「都市的な場」が出現。もともとの中心は、小田原城の西側、現在箱根板橋駅がある大窪あたりだった。この地域を、大森氏が確保し、拠点化。
その後、鎌倉府内部での政治的対立、扇谷と山内の両上杉氏の対立に乗じて、相模に進出してきた伊勢宗瑞が小田原を確保。その次の世代になると、小田原を居城としていく。その中で、もともとの権利関係が薄い、城の南から東側、現在の小田原城下町地域をフロンティアとして、計画的な都市空間を作り上げる。
1569年の武田信玄の攻撃の時には、城下町を焼き払ったというから、この段階では、城下町を囲う堀は作られていなかったのが確実。1587年の大規模な普請で、惣構えが作られ、1590年の小田原の役で北条氏が降伏。その後、徳川家に引き継がれ、1633年の寛永小田原地震で大損害を受け、近世小田原城へと作り替えられていく。
文献史学と考古学で、戦国期小田原城の姿に迫っていく、中盤の「記された戦国期の小田原」「発掘調査でよみがえる戦国期小田原城」が興味深い。複数の「仕寄陣取図」類の検討から、姿を復元していくけど、地図で突き合わせて、とても一致するとも思えない図を読み解いて行く姿が印象深い。
あるいは、御用米曲輪の氏政居館が興味深い。宴会で使われるかわらけが大量に出土したり、独特な切石を使った庭園遺構など。障子堀堀が、ある面では掘削中の姿を現すなど。関東ローム層は、切岸がシャープにできて、石垣が必要ないというのも興味深い。整備が良ければ、石垣より、よっぽど登りにくいわけか。
最後の「戦国大名としての北条氏」は、小田原城の変遷から見る、北条氏のイデオロギー。京都をモデルとした方形都市プランや室町幕府のやり方を取り入れた武家儀礼空間の整備、京都や国外から移入される威信財の分配による権威の確立。
一方で、各地の城が、取り込んだ現地勢力と送り込んだ北条氏直轄部隊の並立した曲輪構造をしている、二元構造も興味深い。
そこから、御用米曲輪の非伝統的な姿の庭園に見られる、京都の秩序と異なるアイデンティティの確立の方向性が示唆されているのがおもしろい。その独自アイデンティティ部分が、あんまり強く証明されていないようにも思えるが…
そして、独自に整備された北条領国の「公」のあり方が、秀吉の創出する朝廷を核とした「公」と相容れないからこそ、北条氏は、豊臣と対立した戦国大名としては珍しく、滅亡を余儀なくされた。同じように、ガチで戦った島津氏は存続を許されているしな。
あと、北条氏の側も、豊臣秩序を受け入れがたかったという側面はありそう。