
- 作者: 菊地正浩
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2014/07/19
- メディア: 単行本
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戦時中、陸軍の地図をもとに、民間でも外邦図が製作されて、需要が大きかったというのが興味深いな。「大東亜共栄圏」に夢を描いた人が多かったということか。なんか、色使いといい、縮尺といい、中高の地図帳に収録されていそうな感じの地図が多いな。太平洋の島々を、ひとつひとつ詳しく描いた地図、あるいは戦前の英蘭植民地の「州」の区分けがどういう根拠に基づいて行なわれたのかとか、いろいろと気になるな。
前半は、フィリピン戦の話。中国を除けば、最大の陸戦が行なわれた地域だけど、もう悲惨としか言いようがないな。参謀本部の介入で、ほとんど丸見えの陣地で、文字通り一人も生き残らなかったガバルアン丘の戦いとか、日本軍が最後に立てこもったアジン川複廓陣地の話など。食糧にも事欠く中で、次々と戦病死していく無残さ。日本軍の戦死者50万人って、ぞっとする数だな。持久拘束作戦といえばかっこいいけど、いってみれば捨て駒だし、そこに投入される側はきついな。
なんというか、国力が弱い側である日本が、結局さまざまな戦争の業務を軍隊内に抱え込んで、さまざまな知識や技術を動員できなかった姿。それが、参謀本部員の地理学的知識のお粗末さや、地理学者を動員できなかったところに明確に現われているな。偵察に地理学者を動員した英国や、日本の専門家を養成しまくったアメリカとの差の大きさ。
昭和二十年(一九四五)六月九日〜十日、この地で語り尽くせぬほどの大虐殺が行なわれた。米軍戦史では伏せられ、日本でも生還者がいないためほとんど報道されていない。私は、現地の日本人ガイドからその事実を聞いた。
大虐殺の前日、バガバグ西方五キロにあるラムットを東西に流れるラムット川は雨季のために氾濫し、唯一の仮木橋が流失していた。翌日、川の水が減水するのを待ってたくさんの人が集まっていた。マニラ空襲と米軍の追撃から逃れてきた、約二〇〇〇人以上の在留邦人と生き残った兵士である。川を渡ってラムット部落まで辿りつき、山下大将の複廓陣地まで行けば何とかなると重い、必死で逃げてきた。ところが、追いついた米軍の戦車が砲撃を始め、空からは爆撃と機銃掃射が一方的に襲いかかった。一瞬にしてラムット川畔は修羅場と化した。右往左往する在留邦人、その多くは婦女子、赤ん坊であった。泳ぎ渡ろうとした者の大半は、米軍の弾に沈むか、渦巻く濁流に押し流された。子供を殺して自ら命を絶つ母親、拳を振り上げ素手で戦車に襲い掛かり殺される者、狂乱した婦女子の泣き叫ぶ声などで地獄が現出された。米軍の攻撃は容赦なく、全員が犠牲となった。p33-4
アメリカ軍もやることやっていると。まあ、降伏勧告しても聞き入れたかどうかあやしいところがあるけど。