牧野知弘『空き家問題:1000万戸の衝撃』

空き家問題 (祥伝社新書)

空き家問題 (祥伝社新書)

 うーん、酷い。
 問題の整理そのものはともかくとして、後の二章の問題への対応の部分が、あまりにポジショントーク丸出しで、読むに耐えない。なんというか、「東京の不動産業者」の利害にあまりに沿い過ぎる文章。「居住」の問題は、すべての人の問題なのに、明らかに不動産を購入する自分の顧客しか目に入っていない。借家人がまったく目に入っていない。また、地方に対する蔑視というより、憎悪すら入っているような記述に苦痛としか言いようがない。地方の人間には、自力で対処する能力がないから、中央集権的に道州制を導入し、私権を制限して都市計画を強力に貫徹するようにしろと主張する。そもそも、それまでの議論が首都圏にも危機が迫っているという話なのに、なんで地方制度をいじくる話になるのか、話のつながりとして理解しがたい。なにが「国土の均衡ある発展を促してきました」(p.208)なのか。ハードウェアの部分しか見ていない時点で、全然話にならない。さまざまな制度や公的資金の配分を決定する「権力」、情報、資本というものが、むしろ、「開発」を通じて東京に集まるように改変されてきたのが事実。で、金がなくなったから、地方は切り捨てて、扱いやすいように道州制に変えて、黙らせようという発想なのだろう。
 本書の問題点は、他人に「改革」による出血を強要するくせに、自分たちは身を切るつもりが一切ないという点にある。「多数決が正しくない」と民主主義を否定するような言辞が並ぶが、では人と資産の配分を中央に便利なようにいじりたいという欲望しか感じない。で、厄介なものは全部外に追い出したいと。先日の佐賀県知事選挙で落選した、前武雄市長の樋渡の乱暴な「改革」が、なんであそこまで中央のメディアから支持を受けるのだろうかと地方の側からは不思議に思うのだが、斯様な考え方が流布していると考えれば、納得がいく。とりあえず、四章と五章は、読まずに切り取って捨てて良いレベル。
 道州制や私権を制限して都市計画を貫徹するみたいな、短絡的かつ乱暴な手法を導入するなら、似たように乱暴な手段は幾らでもあるよな。例えば、今後、新たな宅地開発を行う際、建設する住戸と同数の住戸を取得撤去する、見合い解体制度の導入なんてのもありうる。これなら、人口も世帯数も減少する中で、新築の住宅が建て続けられる、供給過剰の状況が解消される。さらには、あちこちの「売れない」「貸せない」資産が、市場価値を得て、流動化することになる。「減築という考え方」というパラグラフがあったが、住戸解体分を売却する制度も導入すれば、それこそ時代にあった住宅への組み換えは促進されるのではないだろうか。
 結局、著者は、自分が属する不動産業界の問題点に向き合わず、問題をよそに求めているのが問題なのではなかろうか。若者がなぜ建設業界に向わないのか、あるいは地方の雇用の発生源としての「介護」が全然ダメな理由とか、自分の視野の外にあることについて、勉強する気が全然ないのではないかと感じる。


 前半の著者の専門たる不動産の問題については、よくまとまっていると思うが。少子高齢化で、今後は人口も世帯数も急激に減少していく。そのなかで、不動産が急激に価値を失っていく。東京でも、急激に空き家が出現していく。結果として、よほど条件の良い立地の不動産以外は、固定資産税の負担がのしかかるだけで、売れもしない、マイナスの資産と化していくと。で、空き家を補助金出して解体していく条例にも、限界があると。

 賃貸住宅の空室が地方だけの問題なのかと言えば、3大都市圏でも顕在化しています。とりわけ大阪は深刻な状況で空室率が約20%にも達しています。大阪が深刻なのは首都圏以上に高齢化の足取りが速いことにあります。現在の大阪圏の人口が約1800万人に対して高齢者人口は485万人。高齢者比率はすでに26.9%になりますが、2020年にはこの比率は29.1%、2050年には40%にも達するとのことです。p.46

 大阪やばい。まあ、もともと基盤となっていた輸出向け軽工業が中国に持っていかれた、言ってみれば産炭地と同じような問題があるからなあ。それに対する回答って、結局ないんだよな。同じくらい多くの人を養える産業なんてねえ。

 土地が持つ「永続性」がここにあります。不動産の価値はそのほとんどが土地にあるといっても過言ではありません。家屋はたとえどんなにお金をかけて頑丈な家、あるいは高価な素材を使ってきらびやかな家を建てても、所詮は会計上でいうところの「償却資産」にすぎません。つまり年数の経過とともに価値が減じていく資産なのです。p.62

 ただ私がいつも不思議に思うのは、日本では新築住宅に対するニーズが諸外国に比べても圧倒的に強いのではないかという事実です。欧米になると住宅の構造が異なるとはいえ、住宅流通の多くが中古住宅であるのに比べて、日本は「新築住宅」に圧倒的な人気があります。p.68-9

 結局のところ、日本の不動産業界に、中古の建物を値付けして流通させる能力がないってことなんじゃね。で、新築住宅を建てるために都市がスプロール的に拡大していった結果、空き家問題をより悪化させている。いまだに、条件の悪い土地で宅地開発が行なわれているし。

 また単純に地方の若者が、高くなった建設関連作業での報酬を目当てに再び建設現場に戻ってくるかどうかも怪しいものです。彼らの多くが、実はあまり生活自体に困っていないというのも現実だからです。
 地方の多くの若者は現在では親の家に住み、結婚という選択肢を選ばなければ何も建築現場でつらい仕事をしなくとも、そこそこ食べていける状況にあるからです。今さらキツイ仕事についてまであくせく働く必要性を感じていない彼らにとって、こうした求人は、「えっ、いいっす。おれは関係ないし」のレベルなのかもしれません。p.112

 では今どきの地方の若者。トラック運転手のような体にきつい仕事はまっぴらごめん。車両の運転でも、彼らが好んでやるアルバイトが宅配便の配達だそうです。同じ運転手と思うなかれ、こちらの職種であれば毎日家に帰れるのです。稼ぎはそれほどではなくとも結婚をせず、家庭を持たなければ十分な収入が確保できます。なにしろ国内での移動はないから面倒くさくない。苦労して報酬をたくさん得ようというインセンティブに欠ける社会になっているのです。p.115

 なんというか、偏見に満ちた「若者」像だな。端的に言えば、長距離運転手にしろ、建設作業員にしろ、将来のリスクや作業量に対して、報酬が十分じゃないから人が集まらないだけだろうに。軟弱だから人が集まらないといわんばかり。特に建設労働者なんて、十年後には需要が激減して、失業の危機に立たされるのが、今からでも見えているんだから、ちょっと給料が上がったくらいで集まるわけがない。習得に時間がかかる型枠工なんかの熟練工は、さらにリスクが高いわけだし。

 ちなみに、「ならば先生、どこに行けばベッドはあるのですか」
 とお聞きしたところ、先生はニコリとしながら、
「うん、西だね。一般病床の需給率はすでに東京では90%を超えているけれど九州や四国はいまだに50%。ここのエリアは大丈夫だよ。もうすでに高齢化は東京よりもはるかに進展していてこれからはむしろ減少していく。おそらく30年後でもこの数値はあまり変わらないんじゃないかな」
 なるほど、このまま首都圏に居を構えていると、介護施設に入れないばかりか、病院に入院すらできない医療難民になる可能性があることをG先生から教わりました。早いところ四国や九州にでも転居したいところですが、親戚もいないし知り合いも少ない。困った事態です。p.131-2

 いや、九州や四国でも、医療のキャパシティに余裕があるとは思わないのだが。だいたい、今後人口減少の局面では、医療従事者の労働力も減っていくわけだし、地方の側に余裕があるわけではない。こんな時ばかり、地方を当てにしようとか、せこいことを考えるべきではなかろう。

 つまり、東京都心部、たとえば山手線の内側の容積率は一律で1000%以上として高層タワーマンションだけとする。そして郊外に延ばしていた鉄道は廃止して、沿線の住民はみんな東京都心部に移住させる。医師や看護師も、効率を重視してすべて都心部の医療センターに集結させる。高齢者用施設も含め、学校、役所などすべての社会インフラもこのエリアのみで徹底して整備し、維持していく。p.146

 住宅の供給規制では、「社会主義」的な政策はやめて、市場の需給でバランスをとるべきだとか言いながら、こういう場面では、ディストピアSFも真っ青な専制政治を提唱するアンバランスさが気持ち悪い。強制移住ですか。
 まあ、東京がコンクリで埋まったとしても、別にいいけどね。

 まずは自治体の数を大幅に削減する。守るのではなく組み替えることからスタートです。この組み替えの企画立案は中央集権的な発想で行なうべきでしょう。これを現場任せにしては絶対に結論が出ません。企業でいうところの会社が目指すべき戦略の立案は、本社の中枢が行なわなければどうにもなりません。
 ましてや住民の意見を幅広く聞く意味で「住民投票」をやりましょう、などというのも自ら決定する意思能力の欠けた対応と考えざるをえません。骨格は国家によって決めるしかないのです。p.216

 地方の住民には、自分たちの制度を決める権利もないってことですか。はあ…
 だいたい、そうやって中央集権で決めた制度って、実情が見えてなくて、失敗するんだよね。そういう方向でやるなら、失敗した場合、責任者切腹くらいのシステムがないと悲惨な無責任体制になるだろうな。

 特に戦後70年近くが経過し、既存の価値観が硬直し、権益が固定化してしまった日本において、「チェンジ」することへの恐怖感が改革への行動を阻んでいます。p.231

 自分の権益は良い権益、他人の権益は悪い権益。