山下祐介『限界集落の真実:過疎の村は消えるか?』

限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)

限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)

 思ったより時間がかかったな。ページ数が新書にしては多めというのもあるが。
 本書は、「限界集落」の現状をフィールドワークから明らかにし、日本社会の変化というマクロの文脈に位置付けている。その現状の分析をもとに、後半は、どういう対策が行われるべきかを議論している。集落そのものの、内発的な欲求から、対策が行われるべきという指摘には同感。


 第一章は、限界集落論を最初に提起した大野晃の議論の検証と、1980年代末に提唱された「限界集落」が、なぜ2007年になって大々的に取り上げられたかの検証。大野の議論は、高齢化率を指標にしているが、過度の高齢化率の強調、統計の区分と社会的存在としての集落のズレ、将来を予言する議論が逆に社会の動きを規定してしまう問題点など。また、メディアの取り上げに関しては、2007年の政権交代と、過疎法延長に関する情報操作ではないかとする。
 その上で、地域での生活の世代間継承の問題であると指摘する。
 第二章は、実際の「過疎地域」の調査の紹介。鹿児島県南大隅町新潟県上越市京都府綾部市島根県邑南町、秋田県藤里町高知県仁淀川町大豊町の事例を紹介している。高齢化による集落の消滅は確認できず、消滅した集落は60-70年代に挙家離村によって消滅した事例が多こと。現在のところ、過疎集落でも社会生活は健全に保たれているが、戦前世代の高齢化に伴って限界が見え始めていること。それぞれに地域ごとに条件の違いが大きく単一の制度では対応できないが、一方で戦後の人口動態に基づく世代間の住み分けという点では共通性があることなどが指摘される。都市部に近い集落の方がかえって限界化が進んでいるという指摘も興味深い。
 第三章は、二章の実地調査をもとに、「世代間の住み分け」の状況を説明する。昭和一ケタ世代はもともとの居住地に残って、農業を中心に生活を続ける一方、戦後の第一次ベビーブーム世代は都市に出て都市的な生業につく。このような動きが1950-60年代に起こり、これが「第一次過疎」。その後、1970代には、移出する人口がなくなり、過疎は沈静化する。場所によっては自然増も見られる。その後、80年代後半以降、若年人口の流出による出生数の減少と残った人々の高齢化によって、自然減が見られるようになる「第二次過疎」の時代に入るというパターンが見られる。このような、世代間の住み分けは集落の維持という点では合理的であったが、昭和一ケタ世代の退場に伴ってほころびつつあるという。「限界集落」の問題は、単なる高齢化ではなく、「世代継承問題」であると指摘する。
 また、国勢調査地域メッシュ統計から、高齢化が著しい地域を抽出し、その類型として山漁村、開拓村、伝統的町、近代初期産業都市、早い時期の郊外住宅地を挙げている。
 第四章以降は、限界集落問題に対する実際の取り組みの紹介。第四章では、青森県鰺ヶ沢町深谷地区での取り組み事例を紹介している。集落の生活が現在も至って健全であること、集落に住む人々の自発的な取り組みを出発点とすることの二点を重視している。アンケート結果から、戻ってくる可能性のある人がいること、メディアの重要性、安定の根拠としての家族などの論点が指摘される。しかしまあ、ここで紹介されている事例は、本当にささやかな一歩という感じはするな。
 第五章では、適応戦略としての世代間の住み分けが検討される。集落の外に住みながら、頻繁に集落に戻る子供たちの存在。準構成員としての、外に出た第一次ベビーブーマーの存在。生活安定機構としての家族とムラ。戦後の日本社会の大変動にもかかわらず、それによって安定した定住が維持されたこと。広域に家族が分散しつつも、家産を中心に戻ってくる準備はなされていること。しかし、人生のサイクルや生業の維持可能性などで阻害される可能性も指摘されている。
 第六章は、下北半島での過疎・限界集落の状況とまとめ。集落の自発性が重要であること、その自発性を引き出し、人材を再発見する手段としての「集落点検」の手法の紹介、集落支援のための地方中心都市や周囲の集落との連携の重要性、大都市との関係などに言及している。最後の、「中心と周辺」の視線の問題も興味深い。「中心ほど見えていない」という指摘は納得できること。ネットやマスコミを見ていても、東京にいる人間ほど「日本」が見えていないというか、日本代表と僭称しているように見えるのは確か。まあ、私自身、地方都市の郊外に住んでいるわけで、実際の山村・漁村の状況は見えにくいのだが。あと、大都市の方がむしろ社会が崩壊しているというのも、そうなのかもなと。


 以下、メモ:

 いずれにしても、ここでは「過疎」が最初に騒がれた一九六〇年代(第一次過疎)に急速に人口減少が進んでおり、若い人から年寄りまでひっくるめた挙家離村さえ進行していた。それが集落消滅にまでつながっていたのである。こうした過疎化の先進性は、先の鹿児島や北東北の事情などとは大きく違うところである。
 挙家離村は、「仕事がないのでやむをえず」とも言えるが、逆に言えば、都市部での仕事の獲得が確実であったからこそ行いえたものでもある。南九州や北東北ではまだこの時期、関東・関西圏へのアクセスは悪かった。新潟は、関東に近かったからこそ、かえって早い時期に人口流出が始まり、挙家離村も行われたのだと言ってよい。さらにまた、道路整備や除雪対策は、山間部の険しいこの地域にはなかなか及ばなかった。生活格差は、当時の新潟の都市部と比べても非常に大きなものと感じられていた。もう少し待っていれば、嶺でも高齢者のみで生活できる環境が現れていたのかもしれない。事実、訪れたこの村の跡にはいまは道路も舗装され、除雪も入るので冬でも自由に行き来することができる。田畑はいま、別の集落の人たちが借りたりなどして耕作が続いている。現在のこの条件がもっと早く達成されていたなら、挙家離村は選択されなかったかもしれない。p.55-6

 島根県は、この過疎問題が最初に取り沙汰された最先進地である。島根が過疎先進地というのは、考えてみれば不思議な感じもする。日本の中央である関東・関西から最も遠いところほど過疎化が急速に進みそうなものだ。しかし、過疎の最先進地は中国地方、なかでも島根県なのである。現行の過疎法でも、島根県は市町村数の割合で過疎地域が九〇・五%となっており、依然第一位である。実は、「太平洋ベルト地帯からほどよく近く、またほどよく遠い、山脈の向こう側の山村」に過疎の先進地帯がある。筆者が長く関わっている青森県などは、先進工業地帯から充分に遠かったため、この時期の急激な人口流出をまぬがれた。新潟の事例でも見た通り、先進工業地帯からのほどよい近さは、かえって人口流出を促す要因となったのである。p.64-5

 仁淀川町は高地の山間部にあるが、中心都市・高知市からの距離でいうと、全くの周縁ではない。高知の過疎高齢化の事情を見ると、外から見れば不便に見える高知市から最も離れた場所では、それほど高齢化率は高くない。例えば、四万十川流域はそれほどでもないのである。過疎・少子高齢化は、地形によって、あるいは産業や生活様式、中核となる地方都市との関係など様々な要因が重なり合って生じる。p.89

 大都市に近いからこその人口流出。関東近県は、江戸時代にも、江戸に人口が誘引されて、人口減が見られたんだよな。もともと、新潟からの出稼ぎでの人の交流もあったからこそだろうな。結構、人のつながりが移住には重要だったりするから。
 そう言えば、熊本市でも近郊にある金峰山の山村なんかは限界集落化が進んでいるらしいしな。

 とはいえ、現在残っている集落に、限界が訪れる可能性が全くないかというと、それはそれでそんなことはない。すでに戸数の減少が始まっており、その中には子供のいない集落も含まれている。むろん、元気にリーダーが率先して活動している限界集落もある。しかし全体に、一〇年先を考えるのを避けている感じはあると言う。B氏によれば、最近、役場で「災害時要救護者プラン」をつくったが、そのときも、すでに声かけなどをやっているのでプランは必要ないと言うほど、お互いの互助はまだしっかりしていた。消防団も高齢化はしているがまだ健在である。高齢化で困っているという声も聞いたことがない。しかし、例えば一九八〇年代の大雪で、会う人会う人「あーこんたとこいられねえ」と言い合っていたことを思い出すという。このとき、もう数年豪雪が続けばどういうことになっていたか。高齢者ばかりで今後どうなるのかという問題――それはそれでじっくり考える必要はあるのである。p.58

 さて、ここまで見てきた鹿児島、新潟、京都の事例からも過疎問題の現時点が理解されよう。高齢化による集落の消滅はまだ生じてはいないが、他方で少子高齢化は大きく進んだ。これに対して対策はまだ始まったばかりなのである。p.63

 集落での生活は維持されているが、高齢化の問題は深刻になりつつある状況。

 いずれにせよ、ここで確かめた本村・枝村の関係をはじめ、集落間の関係、大字・小字の編成は、その歴史や環境条件によって地域ごとに事情は大きく異なるから、集落問題の現状と対策を考える場合には、その質的な分析を行っておくことがまず不可欠の前提となる。高齢化率など、量的指標による把握は、質的調査を前提にしてこそ、現状を見通す有効な手段となる。逆に言えば、こうした質的分析のプロセスを抜きに、数値のみを使って現状を憶測することは、かえって真実を見失い、無用な危機感を煽ることにもつながりかねない。限界集落や消滅集落がいくつあるという言い方には、とくに慎重であらねばならないわけだ。p.84

 事情はすべて異なる。同じ限界集落などは一つもない。それは人々の性格や顔つきが、一つ一つ違うのと同じである。診断はそれぞれ個別に行われる必要がある。
 他方で、症状には共通しているものもある、過疎地域と呼ばれるところはみな、戦後日本の急速に発展した経済の裏側で、急速に衰退した産業に携わっていた地域だった。農業や漁業、そして林産物や鉱物などの原料生産――かつてこれらは日本に暮らす人々の生活のために、なくてはならなかったものである。戦後直後もこれらの産業が日本人の生活を支え、また戦後の経済成長の端緒をも担っていた。こうした従来型の地域産業が、産業構造の大転換の中で、海外産の製品との競争にも負けて衰退の一途をたどり、若年者の大規模な流出を見た。
 いずれも多くが数百年以上の歴史を刻んできた地域で、なかには確実に千年を超えるところもある。そうした長い歴史を持った地域が、あまりにも急激で大きな社会構造の変化が進行するなか、ついに地域社会の存続が危ぶまれる事態になってきた。こうしたストーリーは、どの過疎集落をとっても同じである。p.101-2

 過疎地域の多様性と共通性。
 しかしまあ、戦後のエネルギー革命の大きさというか。石炭業と木炭業のどっちもが、一気に消滅して、地域経済に大きな影響を与えているしな。

 こうして限界集落問題は、高齢者が多いがゆえにそのサポートが必要だと論じるのでは不十分なのであり、むしろ日本社会の戦後の変動の中で生じた、主要三世代の間に特徴的に見られる村落と都市の、低次産業と高次産業の、あるいは中央と地方の間の、極端な住み分けからくる矛盾のうちに考えるべきものなのである。とくに、その最上位世代の退出によって、これから崩れることが予想される世代間のバランスを、いかにしてこの先も平衡に保てるのか。これが、この問題が提起すべき最大の問いかけとなる。しかもその解答の一つは、当然ながら、その最上位世代が抜ける穴を、その下の世代の還流や出生によって埋め戻すことが求められる。世代の観点から、そこまで議論は進められるはずだ。p.131

 ある意味、人口問題ってことですな。

 過疎問題の歴史をたどれば、そこには異様なほどの国の関わりがあり、これまでの過疎対策がつねに国主導で動かされてきたことを実感する。そして、これまでの地域再生をめぐる枠組みも、基本的には国の側でメニューが作成され、行政機関がそれを受けて各集落に示し、事業への参加が促されるというスタイルがとられてきた。過疎問題解決のプログラムはこれまで、その起点は国や行政の側にあって、当の集落や住民の側にはなかったと言ってよい。p.145

 地域住民の主体性の問題。

 高齢化率の高いところがどこにあるかを地図に落としてみると、興味深いことが分かってきた。一つは、深谷地区のような山間部に点在する集落である。なかでも白神山地岩木山の山々に近づくにつれ、高齢化率は上がり、子供の数も少なくなっていく。
 他方で、鰺ヶ沢の町中にも高齢者集住地帯があることも分かった。もともと雇われの漁師や、その漁師たちを雇う網元や運搬業者から成り立っていた町で、またこうした人々の日々の暮らしに関わる商売を営んでいた人たちの町でもあった。漁業・海運の衰退、そして町そのものの拠点性の喪失が、人口に大きく反映されていた。p.159

 衰退産業地域に高齢者が取り残される構図と言ってもいいのかもな。

 こうした親族ネットワークは、何かを目指してつくったとか、あるいは否応なくそうなったというよりは、むしろそれぞれの家族の中で、もっとも効率のよい結果が生まれるよう様々な戦略が重ねられた中で、自然に編み出されてきたものである。
 過疎問題は特定の地域が頑張らなかったので落ち込んだという話ではない。日本社会が一体化していく過程で出てくる、大きな変化のうちに生じた現象である。少し言い過ぎてしまえば、戦後の経済成長という国の発展目標のために人々が力を合わせた結果でもある。
 もともと状況変化に対する適応なのだから、崩壊には至らないはずだ。筆者はまずはそう考える。外側からの強制や破壊と違って、内部からの変化であれば、崩壊を回避する機構が必ず用意されていると思うからだ。そして実際に、過疎地域の家族構造や村落構造をのぞいてみるなら、そこには必ず人の回帰が仕組まれている。この数十年にわたる一時的な大量排出を経て、その仕組まれたことの一部でも現実に結びつけば、十分に解決可能な問題のように思える。とくにいまは生活を支えるインフラがそろっているので、集落に最低限必要な戸数も、以前と違って多少は少なくて大丈夫だ。p.208-9


 というのも、地方においても都市の人はむらの暮らしを知らない。そして首都圏の暮らしの中では、今度は地方の暮らしが見えない。そういう認識の一方的な不可視の構造があるからである。これらの課題を遂行していくためには、この見えない構造を解いて、この国の形がいまどのようなものであるのかについて多くの人々の間で確認していく必要がある。p.218


 一九七〇年代の研究だが、社会学者・鈴木広氏は、離島の過疎を調査し、地域社会の存続を考える上で最低限必要となる条件として次の五つを提示していた。すなわち、水、医療、交通、教育、電気である。これらは現代日本社会で人間が生活し、地域が存続するための必要十分条件というべきもので、このうち一つでも欠けると、地域生活・地域社会は崩壊してしまう。そのようなものとして提示されている。p.230

 他はともかくとして、医療はやばいよなあ。あちこちで崩壊しつつある。あと、高等教育機関があるかないかは、人の流出に大きな影響があるよなあ。

 それゆえ、こうして見ると、最悪であったのはやはり、このタイミングで平成の市町村合併であったことになる。人々をまとめる単位が馬鹿でかくなり、主体が見えなくなった。このことがどんなリスクを孕んでいたかは、東日本大震災での合併吸収地域の苦悩を見れば明らかだ。過疎でも災害でも、対応が遅れていたり、対応できていなかったりする地域は、昭和や平成に合併した地域が多い。自治体を失ったことで、しばしば主体を喪失しているわけだ。ここで取り上げた相馬地区の事例は、この角度から見れば、合併で失った主体性を必死になって取り戻そうとしているようにも見えてくる。p.256

 実際、無駄に広い自治体ができてしまったからなあ。結局、平成の大合併って、中央の都合で推進されたものでしかない。何が「地域主権」だか。