川口恭子『重賢公逸話』

重賢公逸話(熊日新書)

重賢公逸話(熊日新書)

 先日の県立美術館の講演で、興味を覚えて借り出したもの。飛び飛びに読んだので、全体としての感想は、ちょっと出てこないな。
 『聞くまゝの記』という、重賢の逸話を、誰から聞いたものかも含めて記述した逸話集の紹介と、重賢の治世を描いた当時の書物の要約からなる本。まあ、イメージどおりの質素倹約な生活ぶり。着たきり雀とか、傷んだ畳も変えない、質素な食生活あたり、イメージどおりというか、やりすぎで嫌味というか。殿さまが消費を抑えるってのは、江戸や京都への支出を押さえるってことで、財政再建に意味があることなんだろうけど。率先して消費を抑えてしまうと、熊本領内での武士の消費も落ち込んだのではなかろうか。
 あとは、芸達者ぶりもおもしろい。乗馬が得意。見栄えは劣っても、火事場などで落ち着いた馬を愛用したそうな。能や俳諧を好んだり、儒学の勉強を熱心にやったり。
 逸話を目撃して、話した人物も細かく紹介している。索引を作れば、ちょっとした細川家家臣の事典になりそうな感じ。先祖から、本人の活動まで紹介される。このあたりになると、固有名詞の羅列でよくわかんないけど。


 後半、1/3ほどは、重賢存命中に書かれた、肥後の「善政」を紹介した書物の要約。『以徳政要』、『肥後遊草』、『肥後物語』が紹介される。儒学イデオロギーからみると、評価できるってことなのかな。他所から劇団を呼ぶの禁止とか、なかなか窮屈そうな社会ともいえそうだが。
 大体、評価ポイントは一緒なのかな。藩校の設立、刑法典、再春館による医療制度あたり。あとは、「仁政」と。どうも、一連の重賢評価が、フィクショナルな感じを覚えるというか。
 藩校制度と職掌の明確化によって、限定的なメリトクラシーを可能にしたとは言えそうだけど。


 以下、メモ:

 始めは天晴れ大将軍、賢君でいらっしゃると思っておったが、中ごろでは、ご行状も崩れられて、ご心配もしたが、また、しばらくして取り締まられ、晩年は始めにも優られるように有り難いことどもであった。p.74-5

 一生の間では、いろいろと紆余曲折があったのだな。中年の危機みたいなのがあったのかね。そこから持ち直したのが、「名君」たる所以なんだろうけど。

 公はご覧なさって、お褒めになった。そして、「菊を仕立てるのは、殊のほか手が入ることと聞いていたが、このように見事に仕立てるのには、大変手の入ったことであろう。それほどに暇があるのなら、医者は下手であるのだろう」と仰せられたとのこと。p.118

 医者が、よくできた菊を献上した時の感想。嫌味だなw
 こういってはなんだけど、この時代の医者の「修行」とか、有効性とか、どんなものだったんだろうな。この当時は、薬草が重要だったろうし、逆に園芸が得意というのは、医者の長所だったんじゃなかろうか。
 あと、この時代の「菊」が、どこまで「肥後菊」だったんだろうかとか。

 公のお側にいる御小姓組は六十六人、百石から三千四百石の知行取りで、四人の御小姓頭の支配の下、ローテーションを組んで、公のご外出のお供や諸所への御使番、お客様がおいでの時は配膳・お給仕をする。その他の時は、広間番を努めた。これには、朝詰・昼詰・夕詰・夜詰があり、ほかに、火廻り・門詰・辻固め・寺詰など、いろいろの勤務があった。昼間は麻裃、夕詰は平服など、衣類も規定されていた。p.128-9

 結構、人数が多い。一方で、仕事の量もそれなりにあるな。三千石は、かなり大身だと思うが。他所に使者に出るには、いいのかな。

 大名の側室は、江戸と国許に居住していると思っていたが、この記事と、公の正室由婦君のご消息によって、側室が公といつもご一緒であったのを知った次第である。
 熊本藩の場合は、鶴崎あるいは小倉から船に乗って瀬戸内海を通り、室津、または大坂に上陸することが多かった。陸路は宿泊費がかかるが、船は自前であるので経費を抑えることができるということで、船での往来になったものであろうが、この場合のように、船に弱い人にとっては大変難儀なことであったろう。
 しかし、「女の情態一年と君に別れ奉りし事忍びされは」と、公といつもご一緒でいたいという、切ない気持ちが表されているのが、艶かしく、興味深い。p.148-9

 重賢の側室「此井」が、船が嫌いなのに、経費節減でいつも船を使うのに必死でついていった話。参勤交代って、女性も列の中にいるのか。つーか、女性が出入りしても大丈夫だったのか。流石に、正室は国許に行くのは無理だったと思うけど。

 肥後国は昔から蚕桑織職は行われず、絹類は皆他国産を用いていた。志賀小左衛門・隠居名嶋己兮は京都に上り織職を覚え、近江辺で養蚕の法を習い、織師も連れて帰り、古町で織師の宿を極め、国中の男女の稽古を始め、糸繰りも近江から呼んで新町の細工町の荒木屋市三郎所を宿とし、織物師は細工町板屋惣右衛門所を宿にして織物技術を稽古させた。己兮の植桑養蚕の法一冊を在中へ渡し、在中でも養蚕を奨励し、誠に国中の滋潤となった。仁徳仰ぐべし。p.199

 肥後の養蚕も、よくわからないんだよな。近代に入っても、それなりの規模で養蚕が行われ、絹織物工業もそれなりの規模でやっていたわりに、養蚕文化がいまいち見えにくいというか。江戸中期に、扶植されたものなら、層の薄さも納得がいくところがあるけど。