佐山二郎『日本陸軍の火砲:野戦重砲 騎砲 他』

 シリーズ最後。しかしまあ、本シリーズは文庫だから手に取りやすくなった一方で、本のサイズが小さいせいで図面なんかが見難い、痛し痒しなシリーズだな。しかも、全部そろえると7000円くらいするから、コストは相応にかかるし。B5くらいの版型で欲しいところ。
 シリーズ最後は、105ミリカノン砲と150ミリ榴弾砲を中心とする野戦重砲、第一次世界大戦後に整備されるようになった砲牽引用の自動車、信管の種類に、あとがきから構成。
 高初速で、砲弾を遠くにぶっ飛ばすカノン砲は、浪漫ですな。3から5トン程度と、大威力になった代わりに、馬で引っ張るにも限界に近づいた重砲。それだけに、野砲よりも、威力と軽量化の両立が難しくなっている感じが。九二式10センチ加農砲が、ノモンハンで脚を折ったとか、四年式15センチ榴弾砲が耐久力に欠けるとか。
 105ミリカノン砲は、ヨーロッパではあまり重用されていないけど、日本では、野戦重砲兵の主力だったんだよな。性能的には、各国の砲とあまりかわらないし、弾薬さえあれば、十分機能したんだろうけど。


 後半は付録で、牽引車と信管の紹介。後者は、良くわからない。
 自動車による牽引は、第一次世界大戦の直後辺りから研究されて、アメリカのホルト・トラクターから国産車両の開発へと移行していくが、やはり最初の頃は苦労したようだ。ホルトトラクターは、変速のたびに停止しなくてはならないと、運行上苦労しそう。さらに、国産車両は、故障が多いとか、覆帯が外れやすいとかで、「馬か自動車か」で論争が起きる始末だったとか。現在から見ると、人数も少なくてすむし、運搬力も大きいし、自動車だろうと思うが、故障で半分が脱落するとか、肝心なときにキャタピラが外れるとなったら、そりゃ困るよなあ…
 昭和10年代に入ると、車両の性能も安定してくるようだが。大量生産や自動車の製造技術の立ち後れが、明瞭に見て取れるわな。
 高射砲部隊は、トラックで引っ張る形式だったと

 昭和十四年三月二十日、野戦において国軍始まって以来の大砲兵を集中した中支修水河の戦闘が行われた。大小六十数中隊の砲兵および多数の迫撃砲を集め、その猛威により一挙長時間にわたり敵の準備する修水河畔の堡塁を突破することが目的だった。攻撃正面8kmに対して194門、すなわち1kmあたり24門の火砲を集中した。動員された火砲は四一式山砲36門、改造三八式野砲66門、四年式十五糎榴弾砲72門、十四年式十糎加農16門、八九式十五糎加農4門で、弾薬は10基数を予定し、砲側に5基数の集積を終えた。ノモンハンで砲兵を集中した七月攻勢のときでも火砲総数82門で弾薬は5基数の準備であったことと比べるといかに大規模な火力準備であったかが分かる。実際の使用弾数は3基数に止まり、第一線歩兵は演習でもあるかのように煙幕に包まれて渡河に成功、追撃して南昌を占領した。p.54-5

 日本軍の砲兵集中。やはり、ソ連やらドイツ辺りの火力集中と比べると、微妙感が。8キロ正面なら、密度としては十分だったのかね。