大畠正彦『ニューギニア砲兵隊戦記』

ニューギニア砲兵隊戦記―東部ニューギニア歓喜嶺の死闘

ニューギニア砲兵隊戦記―東部ニューギニア歓喜嶺の死闘

 タイトル通りの本。第二十師団所属の野砲兵第二十六連隊第一大隊第三中隊の中隊長による、ニューギニア戦の体験記。後書きを見るに、死後に出版されたもののようだ。
 第二十師団主力がフィンシュハーヘンで戦闘している間、側面防衛でフィニステル山系の歓喜嶺を確保する中井支隊に配属され、砲兵火力で歩兵部隊を援護する。一個大隊規模の部隊で、一個師団の攻勢を支えて、オーストラリア側では、かなり重要な戦闘とみられているようだ。


 反斜面で、オーストラリア軍陣地から遮蔽される地形、徹底的な陣地構築で足跡をつかませなかったことが、豪軍による火力の優位を活かさせなかったのだろうなあ。2門の山砲で、一個師団が足止め三ヶ月。対砲兵戦の重要性。
 砲兵戦に必要なのは、目標地点を徹底的に破壊できる弾量。間接射撃は、確率で物を考える。あとは、観測所の占地の重要性。見通しが良く、遮蔽されている場所。観測部隊は、対砲兵戦の上で重要なので、狙われる。相手が見えるところは、相手からも見えるところで、徹底的に狙われる。


 印象的なのは、飢餓に苦しんだとされるニューギニア戦でも、まだ、この時期は補給がそれなりに行われていたのだな。制空権を奪われて、山の中に道路を作り作り進撃。さらに、輸送力が足りなくて、人間が担いで運ぶという悪条件。だが、主食の米はなんとか補給され続け、砲弾は総計4000発撃つ程度供給。自動車が動いていたり、キニーネはとりあえず十分供給されていたり。1944年前半あたりまでは、まだ、全軍の一割しか帰らなかった惨状まではいっていないのだなあ。著者も、ここから先は語りたくなかったのか。
 つーか、20万の軍勢を事実上、飢餓で全部溶かすとか、日本軍やることが違うなあ。普通、こうなる以前に降伏するだろう。事実、戦略的に意味のない存在とかしていたわけだし。
 比較的生存率が高かった野砲兵第二十六連隊ですら、復員できたのは5%切りの100人余というのが、恐ろしい。


 あとは、パラオで足止めを食っている間の準備が興味深い。基礎訓練を繰り返して、実戦でも意味があったとか。撃沈されても、兵器を持って行けるように筏を準備するとか。演習で木工具の増備を要請したり、リヤカーでは壊れやすくて使い物にならないことを立証したり。
 しかし、本当にあの地域は疫病がいろいろとあるものなんだな。当時の技術では、ほとんど予防できなかったっぽい。デング熱を、かかって済ますとか。給養が悪化して体力が低下した後、再発した人間が多かったんじゃなかろうか。大畠氏は、南洋庁の図書館で本を見て対策を勉強しているけど、こういうの、マニュアル化されていないのが、日本軍が南方で戦う準備が全然出来ていなかったことを物語っているな。


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