「横手の五郎由来」碑

 横手阿蘇神社に建てられている石碑。花岡山の西、少し谷が入り組んで、岬状になった場所に立地する。簡単な砦があっても不思議じゃなさそうな立地。しかし、秋は日が傾くのが早くていけませんな。見事な逆光。
 横手五郎とは、伝承上の人物で、加藤清正を暗殺しようとして露見、井戸に落とされ殺害された力持ち。彼に関する伝承としては、益城のほうの猫伏石というのもある。
 神社の境内に毘沙門堂というのが、おおらかでいいね。






石碑正面

 横手の五郎 由来
 伝承によれば横手の五郎は戦国武将益城郡
赤井城主木山弾正の遺児で、加藤清正が肥後
を統治した文禄・慶長時代の人と伝えられる。
五郎は天正十三(一五八五)年横手村で生まれ、
三十七人力とも七十五人力とも言われた大
力無双の巨漢であった。
幼少より横手吉祥寺境内の毘沙門天を信仰し
五〜六歳で米俵を担ぎ、長じては花岡山の岩
肌を蹴り剥ぎ、九州一の筑後の男を投げ倒し
たなどの力話がある。
 熊本城築城のとき、天草の乱加藤清正
仏木坂で一騎打ちして敗れた父弾正の仇を取
る為人夫として働いていた五郎は、宇土櫓前
にある凹字形の大石を首にかけて持ち運ぶな
どの働きぶりが評判となった。その働き振り
を清正に認められたが、ついに正体を見破ら
れ井戸に落とされる。大石を投げ込まれるが
大力の五郎はその石を上に放り上げるが、殺
されることを悟り、「砂を入れないと殺せな
いぞ」と叫び、ついに砂を入れられ殺されて
しまった。
 江戸時代、人々は五郎の死をあわれみ吉祥
寺の毘沙門堂に五郎の霊を祀った。明治後期
地元民により横手阿蘇神社の境内に毘沙門堂
が建立され、横手五郎大明神として祀り、
親しみをこめて「五郎さん」と呼び永年命日
には祭礼を行って来た。
 昭和五十一年、不審火によって毘沙門堂
焼失、神像は半焼したがお堂を再建し、今日
に至る。毎年九月十三日の命日には祭礼が行
われる。
             文責 毛利秀士



石碑裏面

賛同者名
   中村 實
   林田瑞雲
   野口幸盛
   宮本保彬
   宮本 晃
   横山可津己
   横山源治
   磯田利則
   櫻間善助
施工 源 工業
平成十九年十月吉日