京都国立博物館『没後二〇〇年記念特別展覧会:円山応挙:抒情と革新』

 先日、八代市立博物館に円山応挙を見にいって、それで、そういえば昔京都で図録買ったなと思い出して、本棚から召喚。きっちり目を通したのは、買ってからはじめてかも。とりあえず、展覧会の内容をすっぱり忘れていたのがちょっとショック。展覧会を見て、感銘を受けたから、3500円くらいしそうな図録を買ったはずなのだが。まあ、1995年のだから、都合20年以上たっていて、しかも、メモとかしているわけではないから、当然と言えば当然なのかもしれないが…


 最初は二本の解説論文。
 狩野博幸「応挙断章:人と仕事」は、いろいろな応挙の経歴の話。応挙を評価した随筆家の話とか、応挙の「写生」が必ずしも現代的な意味での「写実」と同じでないとか、それぞれの画家が後援者・宣伝者であるである文人を持っていたとか。まさに、断章的に書き連ねられている。
 冷泉為人「応挙の写生画:「しかけ」表現をめぐって」は、応挙の「新しさ」が当時の文脈に即して語られる。応挙の絵画を批判する人々がいたこと。その原因として、当時の、そして中国から導入されてきた絵画論において、「気韻」を描くことが大事で、形態を忠実に書くことは、気韻を描くための手段であったこと。逆に、応挙は、写実で形を写し取れば、そこに気韻が再現されると考えていたことが紹介される。また、様々な主題を応用して、新たな「画題」を作り出すことを重視したとか、そのための「しかけ」とか。
 様々な外部的な「文脈」を排除した純粋な絵を作ろうとしたという指摘がなるほどと。


 図版は、障壁画、屏風、掛幅、画巻類、弟子で応挙の絵画に「文脈」を再導入した長沢芦雪、応挙の手紙と分けて紹介される。
 こうして見ると、八代の時も感じたけど、大画面の山水画とかは、あまり迫力を感じないなあ。端正を通り過ぎて、少々、弱々しいような。割と最近、雪舟だの、矢野派だのを見た後だと、大画面の山水画は、そちらに魅力を感じてしまう。まあ、ページごとに、分断されてしまっているからという側面もありそうだが。
 画面が押し詰まった、掛幅類が一番、密度が濃くて、本領を発揮しているように思う。画面が小さいほうが、「しかけ」やすいのかも。あるいは、図録というメディアでは、掛け軸の方が魅力を紹介しやすいか。
 障壁画では波濤図が、屏風ではいくつかある竹図屏風がいいな。やはり、鳥と植物が、すごく良い。
 八代に出ていたものでは、「牡丹孔雀図」と「大瀑布図」が出展。当時、萬野美術館に収蔵されていた品々が、相国寺の美術館に移管されたらしい。