宮本常一『塩の道』

塩の道 (講談社学術文庫)

塩の道 (講談社学術文庫)

 1980年前後に行われた講演を集成した本らしい。「塩の道」、「日本人と食べもの」、「暮らしの形と美」の三本の講演録と田村善次郎による解説が収録されている。
 なんというか、宮本常一という大学者の長所と限界を鮮明に現した本といった感じがする。自分で歩いて見聞したことから直接引き出すことができる話はものすごく説得力がある一方で、そこから数百年のスパンに拡がると、どうも弱い。自己の見聞と固い考古学的証拠から構成している「塩の道」はめっぽうおもしろいし、古びない。逆に、後二者、「日本人と食べもの」と「暮らしの形と美」は、依拠したデータが否定されて古びてしまっている感じがある。騎馬民族説はさすがにねえ。栽培植物の伝播に関しても、がらりと変わっている現状があるし。


 「塩の道」は、内陸の人々がどのように塩を得てきたかの歴史を明らかにする講演。
 日本列島では基本的に、海水を煮詰めて塩を得てきた。煮る器は、土器から鉄鍋に変わり生産量が増加。さらに、瀬戸内海の塩田地域では白い塩を得るために、石を粘土でつないだ石釜が工夫される。近江の鉄の話が興味深い。若桜方面の入り浜製塩に鉄鍋を供給し、木地師のノミに使われ、石割のタガネに使われて、さまざまな技術の蓄積に貢献した。高度の高い鉄の供給から、木地師は地元との関係を維持する必要があったと。
 あるいは、塩供給の変化。山地の人々が自分で焼いて塩を生産する状況から、木材を提供して焼いてもらう、さらに瀬戸内海の塩が流通するようになると木材を売却して購入する形式と変わっていく。あるいは、塩の生産者が、瀬戸内海産の塩に対抗できなくなって毒消し売りやテグスの行商へと転じていく姿。あるいは、現金での換金性がよい木灰の生産が盛んになる。
 内陸地域への輸送のために、「陸船」とも称された、牛が多用された馬は山地での輸送能力が劣り、かつ、泊まる場所に厩を必要とした。しかし、牛は山地でも力強く活動できる上に、野宿も可能。さらに、沿道の雑草を食べさせることができる。そのため、牛が通った道は、裏道の細い道であった。逆に、そういう細い道であっても、明らかに牛が通った道なら、知らない土地でもその先にある程度の規模の集落が存在すると期待できた。
 その牛も、片道輸送に使ったあとは、一緒に売却して、人間が現金だけ持って帰るというパターンが多かった。岩手県の南部牛は、鉄を運んで、一緒に売却。そのため、かなりの広範囲に分布していたという。あるいは、佐渡牛も、中部地方に普及していた。
 あるいは、足助近辺の馬の生産とか、あちこちから搬入された塩が積み替えられていた状況。人間が荷物を運ぶボッカなど。ボッカって、今でも山小屋の輸送などで残っているな。人間の運ぶ量でペイするために、塩魚に加工されたものが運ばれた。あるいは、山地の人々はにがりが残った質の低い塩をわざわざ買って、塩からにがりを抽出。それを使って豆腐を作っていたとか。


 後二者は、俗流の「日本人論」になってしまっている感があるなあ。「日本人と食べ物」の初っ端で、「戦闘する者と耕作する者とが別々であった」と出されると、その時点で眉につばを付けてしまう。
 一方で紹介されるデータそのものは興味深い。トウモロコシの拡散。ヨーロッパでも山岳地域に普及を見ているが、日本でも同様なのだな。雑穀を代替する形で、民衆主導で導入されていった。
 逆に、サツマイモは篤農家や行政主導で導入され、導入されていったところでは救荒作物として飢饉の犠牲者を出さないことに貢献している。一方で、ジャガイモは、えぐみから、なかなか普及しなかった。
 東北・北海道方面の古代の農耕文化や馬の生産のレベルの高さへの注目も印象深い。そういえば、「蝦夷の騎射」も、単純な狩猟採集社会では実現しなさそうなことだしなあ。
 日本に入ってきた稲が、湿地帯よりも、かなり乾燥した環境でも育つ種類だったのではないかという指摘。米を甑で蒸すのと、さまざまな穀物を粉にして茹でる食べ方の二重構造。船が沿岸航海・河川遡上両用のスタイルであったことが土佐日記からわかるなど。
 魚肉を食べる工夫としての鮨。食物貯蔵において壺が重要で、これによって大方の食品が発酵を伴いつつ貯蔵されるようになった。味噌が健康維持に重要であった。
 あるいは、タガの技術が導入されたことで桶や樽が生産されるようになった。江戸時代には、関西地方では吉野杉を使った樽や桶が生産され、それで生産された酒が関東方面に輸出。それを再利用した漬物や醤油醸造などの製造業が発展していった連鎖。

 ただ、ジャガイモだけは容易に広がらなかったのです。日本へ入ってきたジャガイモ、はやりこれも南アメリカから入るわけですけれども、えぐかったのです。ですからエグイモなどともいっております。p.138

 南米の原種に近いものが入ってきたってことなのだろうか。南米だと、チーニョとか毒抜きの技術があったわけだけど。近代に入って、ダンシャクができるまで、拡散のしようがなかったのか。