武田尚子『「海の道」の三〇〇年:近現代日本の縮図 瀬戸内海』

 広島県東部にある田島の町集落を舞台に、島の住民と海の道のかかわりを、近世から1990年代までの通史として描く。島の社会の重層性が描きだされていておもしろい。このような沿岸社会についての本としては山口徹『海の生活誌:半島と島の暮らし』asin:4642055657が思い出されるが、こちらは一つの島にフォーカスしているので、別のアングルで楽しめる。
 前半は近世から戦後にかけての漁民の移動について。続いてはエネルギー輸送路としての瀬戸内海から高度成長期の重工業の叢生の時代。漁民たちの職業移動の話を常石造船を中心に。第三部は、田島の隣の横島に計画されたLPG基地建設に対する反対運動とそこから見える島社会の重層性。
 田島の町集落は、近世には公儀の御用に水夫を差し出す水主浦であり、その代償として広範囲の海面で漁業を行う特権をもっていた。また、瀬戸内海航路の中継港であり、麻網の生産地としても広範囲に販売を行い、住民は大網の漁法に長じていた。この結果、町集落の漁民は外洋志向をもつようになる。明治30年代までは、田島は麻網問屋が社会の中心を占め、その下に一般の漁民が存在する社会構造になっていた。麻網問屋は町に定住し、集落の政治を行い、船を派遣して広範囲に商売を行った。分家を各地に配置し、現地の有力者との婚姻を通して、広域のネットワークを形成する。一方、漁民たちは、近隣の同階層と緊密な社会関係を築く一方で、広範囲に移動して生計を立てた。
 町集落のの漁民は、九州北西岸、五島列島などで行われた西海捕鯨に網のスペシャリストとして毎年出稼ぎに出ていた。また、明治に入って打瀬船が普及すると、即座にそれを受容し、沖合の打瀬網に中心を移す。その後、漁場の狭隘化にともなって、海外に進出。マニラ湾で打瀬網漁を営むようになる。町集落との血縁などの関係を維持しつつ、マニラ湾で経済的に成功した人間が町集落の中心を占め、没落する麻網問屋家系と交替していく。しかし、マニラ湾の漁業は第二次世界大戦で消滅し、国内に漁場をもたない町集落の漁民は、国内で漁業に従事することなく、大坂の工業地帯で工員になる、瀬戸内海の海運業の作業員になる、南氷洋捕鯨の作業員になるなどの変転をしていくことになる。一方、隣の横島では、周防灘に出漁し、漁民層の分解は高度成長期まで持ち越される。また、田島内の箱崎集落では沿岸漁業から養殖へと移行しつつ、漁民集団が維持される。


 第二部は工業による瀬戸内海の再編成。明治に入ると、北九州の石炭を阪神の工業地帯に輸送するエネルギーの道になる。石炭輸送のために機帆船が増加し、その中から海運会社や造船会社が成長する。田島の近辺ではT造船(常石造船を指すと思われる)が成長する。宮沢喜一との関係が興味深い。また、戦後には、全総石油へのエネルギー転換と旧軍の燃料廠跡地を利用した石油化学工業の終着地として、再編される。一方で、漁船の動力化にともなって、漁民層の分解が展開する。常石造船の成長にともなって、漁業権の交渉などで関係者を下請会社の社長などにした漁協幹部がエリートとして影響力を増す一方、漁業からの退出を余儀なくされた漁民たちは、瀬戸内海の中堅造船会社の社外工となり、近隣ネットワークを利用した「組」をつくって、従事することになる。


 第三部は、石油ショック以降、1980年代に横島に計画された常石造船のLPG基地建設計画に対する反対運動の中に社会構造がどのように反映されているかの話になる。漁民層分解が早くに進み、常石造船発展の前に各地に労働者として散り、同社に関係する人びとが少ない町集落、シンボルツリーであるムクの木保存運動から連続的にLPG基地反対運動に接続した田島東部内浦集落、漁業集落である箱崎では漁民集団の中から育成された地域リーダーが反対運動の中核になった。また、常石造船の影響力の強い南集落では盆の音頭取りといった民俗儀礼から出てきたリーダーが活躍する。同島の重層的な社会が、反対運動のなかで機能した状況が描かれる。特に南集落の村の労働者の世界、「根の世界」が興味深い。


 日本の近代化と地域社会の変容が縮小した形で読みとることができる。ただ、現在問題になっている原子力発電所補助金漬けの問題などでは、もっと強い圧力がかかったのだろうなと思うが。


 以下、メモ:

 そのような中下層がどの程度の割合でいたかというと、1872年(明治5)に町集落に住んでいた256戸のうち、約4分の3は極零細土地所有者・非土地所有者だった。このような層の男性が漁民として、秋・冬には西海捕鯨に出かけ、春・夏には田島周辺で鯛網に雇われた。女性は麻網の内職にいそしんだ。p.52

 逆に言うと、町集落では土地をもたなくても生計を維持できる環境にあったということだよな。相当に都市的な場だったと言えるだろう。あと、女性の麻網梳きを「内職」と言ってしまうのはどうなんだろう。プロト工業化的な、複合生計と捉えるべきなのではないだろうか。

 天神社も虚空蔵さんも、草むらに埋もれた祠やお堂に過ぎなかった。天神山には水軍の砦という物語もあったが、ここにマニラの稼得金が投入され神社再興のストーリーが付け加わった。新たな物語が重ねられ、重層的な意味を持つ社会空間が構築された。祭礼によって、集落の時間秩序に重要な一コマが増えた。集落周縁部の目立たない宗教的スポットが、集落の生活や時間の秩序に彩りを添える社会空間としてよみがえった。社会生活の核になる、新たなトポスが形成された。マニラ移民の還流金は、単なる「金」に止まらず、地域社会の生活を豊かにする社会的資源に転換していったのである。p.92

 戦前には、新たな神社の祭礼の出現やお堂の再興などがあったわけだ。比較的最近に新たな祭礼が出現するというのが興味深い。旧来からの集落と高度成長期以降に開発された土地を見分けるのに、お地蔵さんやお堂を手がかりにしているが、このような宗教感覚というか、地域に小宗教スポットを形成する動きがなくなったのはいつなんだろう。現在では、お地蔵さんは交通事故の被害者を追悼する施設になっているし、最近はそれさえなくなっているような。

 中高年の住民二名が声をあげた。一人は女性、もう一人は男性だった。「なぜ建てる前に説明しなかったのか。いいこと言っても、それが筋じゃないか。」「地域の人たちに説明して、了解をとるのが筋じゃないか。」「地域のことは、地域に説明が必要」と、きっぱりと言った。
 これらの発言で流れが変わった。「ムクの伐採は反対だ」「残すべし」という発言に拍手が起こり、伐採反対が氏子総会の決定として承認された。話し合いは、「むら」を成り立たせる基本で、伝統的な直接参加方式だった。ムクの木について、まずは説明があり、話し合いがされるべきであった。しかし、ローカル・パワーエリート層はそれを無視して伐採を決めた。これまでなじんできた「話し合い」の手続きを踏み外し、勝手に進めたことに対して、人々は反感を表明したのである。
 「話し合い」が集落の直接参加方式だった。それを無視したことに対し、集落の熟年者たちは反感を抱き、異議申し立てをしたのである。中堅の住民がきっぱりと伐採反対を述べ、青年たちを支持し、ローカル・パワーエリート層に対抗する側であることを示した。ムク伐採反対運動によって、田島東部では若いローカル・リーダーが生みだされていった。p.179

 ここの部分を見て、江戸時代の村方騒動を連想した。田中圭一の『村からみた日本史』asin:4480059288や『百姓の江戸時代』asin:4480058702で描かれる状況も、指導者層の独断が原因だったわけで、いつの時代でも合意形成というのは大事なものなのだなと。あるいは、村の構造は現在にも引き継がれているというべきか。