畠山剛『炭焼きの二十世紀:書置きとしての歴史から未来へ』

炭焼きの20世紀―書置きとしての歴史から未来へ

炭焼きの20世紀―書置きとしての歴史から未来へ

 木炭の生産量日本一の地位を占め続ける岩手県の木炭生産の歴史。東京への木炭供給開始から飛躍的に生産量が拡大したようだ。第一部は岩手の木炭生産の通史、第二部は重要人物の伝記を中心とする過去に掲載した雑誌記事の再録、第二部は昭和三十年代の専業炭焼き業者の生活状況について。第四部は木炭生産の現状。
 岩手の木炭生産は、域内の暖房用、たたらや木炭高炉などの製鉄のために生産されていた。明治30年代から東京への移出が始まり、生産量が激増する。窯の改善による改良製炭の普及や生産の増加、輸送ルートなどについて。大正時代の移出木炭検査、昭和の恐慌による生産増と需要減少の中で価格が低下するなか、生計のために生産を続けざるを得ない状況、戦時の増産、戦後の活況と燃料革命による木炭生産の崩壊とつづられる。高度成長期のエネルギー革命がいかに山村経済に影響を与えたかが印象的。あと、東京へ出荷するための商品生産としての性格が興味深い。
 本書の素材として聞書きが多用されているが、明治三十年前後生まれの人を1970年から80年あたりにかけてインタビューしている。今、おなじことを調べようとすると、生存者はほとんどいないのだろうなという感慨が。今や、太平洋戦争を実際に証言できる人もほとんどいなくなっているし、高度成長期以前の状況というのは、本当に遠くなりつつあるな。熊本でも養蚕が盛んに行われていたそうで、直接経験者に聞いたことがあるが、それとても現在からはちょっと想像もつかないし。
 第三部は、著者の調査と県の調査報告書をもとに、専業製炭業者の生活状況を述べている。本書を読んでいて「貧しい炭焼き」といった感覚が貫かれている。これは、著者が昭和30年代に直接接した人々がそうだったからだろうが、それを通時的に適用してしまうのはどうなのだろうか。生活水準を議論するなら、相対的な水準を考える必要があると思うのだが。斜陽の時代というのも考慮する必要があるのではないか。家族経営の一部としての木炭生産、モノカルチャー的な商品生産に従事する専業の炭焼きは、ある程度分けて理解する必要があるのではないか。まあ、昭和30年代に炭焼きに専従する人が、他と比べてもひどく貧しい状況にあったのは間違いないようだが。原木を求めて5年程度で移住するため、仮設に近い掘立小屋に住んでいたこと。あるいは木炭の流通業者に原木代や生活物資の供給で借金があり、金融的に従属状態にあったこと。流通業者が各種の投資を負担する賃焼を除いては赤字状態だったことなどが興味深い。
 第四部は現在の木炭生産。往時には遠く及ばないが、1980年代以降木炭生産が増加し、4000トン台から8000トン台に増加しているという。「昭和の終わりのこと炭の値段が上がり、私達は「このくらいの値段であれば、炭焼きをしてもいいなあ」と思っておりました(p.233)」っていう証言が興味深いな。かつては原木がある山奥に窯を築いて生産していたが、現在は自宅近くに大型の窯を築き、原木を輸送してくる方式になったこと。原木の伐採小切りや輸送など各工程で機械化が進み、窯も大型化し耐用年数が長くなったため減価償却が小さくなり、経営的にもペイする状況になってきたという。年36回出炭で400万円ほどの純収入があれば、それなりに暮らしていけそうだなと思った。
 最後の「おわりにかえて」では、まとめ的に北上山地住民の森林利用の歴史が整理されているが、これが興味深い。木炭生産を始める前には、固定的な耕地に加えて、焼畑やトチ・ナラなどの堅果類を食べることで自給生活を行っていた。明治30年代以降には、ナラ類を伐採して木炭生産が行われるようになり、焼畑や木の実食は放棄され、現金収入で穀物を購入して食べるようになる。これってもしかすると、木の実食の時代のほうが栄養状態はよかったんじゃなかろうかって気もする。この時代には、伐採後の原木は切り株からの萌芽によって天然更新され、資源が枯渇することはなかったという。昭和30年代以降、拡大造林と新全総の北上山系開発による牧草地の開発によって畜産業の振興が図られるが、どちらも輸入の自由化によって山村経済の活性化に失敗している。また、拡大造林地は整備が行き届かず、不成績造林地になっているという。ここの部分を読むと、戦後の日本は一次産業を犠牲にしつつ工業生産を優先したことがよく分かる。水産物、木材、畜産物、穀物など大半の一次産業を海外産品に明け渡しつつ、稲作だけは異様なまでの保護政策と大規模投資を繰り返してきた。その歪な政策が限界に達しつつあるのが現在の状況なのだろうな。あと、拡大造林に関しては、その条件のない場所に、密植・間伐などの資金と手間を必要とする技法を導入したのが問題だったのではないだろうかと思った。条件の悪い場所では天然更新で維持できる木材生産の方式を模索すべきだったのではなかろうか。
 熊本では木炭生産というのは、あまり聞かないが、どの程度の規模だったのだろうか。古い統計書でも漁れば出てくるかな。宮崎の椎葉かどこかの木炭の論文をコピった記憶があるのだが、あれはどこに埋まってるのだろうか。


 以下、メモ:

 さらに図11は昭和28年から44年までの岩手県木炭生産量、県外移出量、東京移出量の変化を示したものです。28年に対する44年の割合を見ますと、同生産量は約11%、同県外移出量は約13%、同東京移出量は約8%で、生産量よりも東京移出量の落ち込みが大きくなっております。これは木炭減産の引き金になったものは、東京都などの一般家庭用燃料の消費動向の変化であることを示唆するものでした。p.96-7

 10年ほどで、一つの産業が壊滅するってのはインパクトが大きそうだなあ。都市部での家庭用燃料の変化が、山村に与えた影響は本当に大きいのだろうな。

 仕事を失った専業製炭者たちは失業保険も転職奨励策もないままに山をおり、その多くは都会の片隅で下積み生活を余儀なくされました。また農家の副業製炭者は出稼ぎに出るようになり、子供たちも学校を卒業すると仕事を求めて村を離れていきました。p.226

 エネルギー革命のインパクトとある種の棄民の形。こういう山村での生計を失った人々は、その後どこに移動したのだろうか。あと、出稼ぎという形が通時的なものではなかったのだな・

 二つは木の実の採取です。トチやコナラ・ミズナラ堅果(方言ではシタミ)の木の実を拾って主食とし飢えを凌ぎました。またクリの実は増量材・甘味料として、クルミの実は高級な添加物として重宝に用いられました。この村には「娘が生まれたらトチノキを三本植えろ」という言い伝えがありますが、これらの天然の萌芽更新による落葉広葉樹の実は、縄文時代の昔からかけがいのない主食食料源でした。
 それだけでなく春にはコゴミ・ウド・タラノメ・フキ・ウルイ(オオバギボウジ)などの山菜が芽吹き、秋にはキノコ類・やまブドウ・やまナシなどがなり、これらが食卓を飾り、また保存食として大量に貯えられました。
 山林原野はこのような食料採取地・採草地だけではなく、家屋の建築材や薪の採取、杵・臼などの各種生活道具、鋤・マサカリなどの柄など、それぞれに特定な樹木の幹や枝が用いられました。人々は草や木の固有な性質を知り、その幹・枝・皮・地下茎・果実・茎・葉などの器官や組織の特徴を読んで、必要に応じてそれらを採集して一定の加工をして使用したのでした。p.261

 「飢えを凌ぐ」って表現に、心の底に染みついた偏見が見えるような。これだけあると、結構豊かな生活という感じがするな。利用法の知識とまめな労働が条件とはなるが。同時代の他の土地と栄養条件を比較すると、どんな結果が出るのだろうか。