須賀丈他『草地と日本人:日本列島草原1万年の旅』

草地と日本人―日本列島草原1万年の旅

草地と日本人―日本列島草原1万年の旅

 昭和の前半までは、日本列島には広大な草原が存在したこと。これらの草原は人間が火入れ、刈取、放牧などの利用を通して維持されてきた「半自然草原」であったという。現在では、利用の仕方が根本的に変化し、草原は急激に縮小してしまったが、往時は広大な範囲が草原であった。自然状態では草原は森林になってしまう日本列島で、草原と人間がどのように関わってきたのかを描いた本。人間と環境の関わりってのは、歴史学方面でもトレンドだが、本書は生物学・自然地理学からのアプローチ。次に読む予定の『森林飽和』と近いテーマだな。しかしまあ、読むのにえらく時間を食ってしまった。9日から読んでいたことになるな。都合1週間か。
 第1章が大陸の生物相との関連や草原の展開、第2章は後氷期の草原の展開と人間活動の関係、第3章は水田の畔など「里草地」の植物相と生物多様性に対する機能について論じている。とくに第1章と第2章が、トピックが重複しているような気がする。


 最終氷期には、日本列島も寒冷化・乾燥化し、草原という生態環境も維持しやすかった。また、海水面の低下によって大陸と繋がり、結果として大陸と共通の生物相となった。中国東北部を中心に「草甸」と呼ばれる草原性の植物相が存在するが、日本の草原の植物相もこれに近いという。これらは火山や河川の氾濫などの撹乱によって存在していた。
 最終氷期が終わる約1万年前以降、日本列島は温暖化・湿潤化し、自然状態では草原は維持できず、森林に遷移していく環境となった。しかし、その後も、日本列島には草原が広く展開し、これは人間による火入れによって維持されたという。古くからの草原には、黒色土が存在し、その土壌中に含まれる微粒炭の存在から、縄文人による火入れが想定されている。琵琶湖底の微粒炭の分析からは、過去13万年のうち、1万年前から活発化したという結果が得られている。また、地域によって微粒炭が増える時期が異なっているそうだ。また、古くからの草原では、阿蘇の「下野の狩」のような狩猟神事や牧としての利用など、継続的に草原として利用されてきた状況が明らかにされる。
 最後は著者の専門であるチョウの分布。


 第2章は人間活動と草原の関係の歴史。前半は花粉分析など土壌の分析の話。後半は人間活動と草原の話。
 花粉分析やプラントオパールの含有量などから過去の植生の変化の追及が可能になること。最終氷期の終了後に草原植生が拡大していることが、植物珪酸体の変化から明らかになり、半自然草原の出現が縄文時代にまで遡ること。
 草原の指標となる土壌である黒色土についての話。大量の有機物を含む土壌であること。植物珪酸体の分析から、植生の変化が追跡できること。大量の微粒炭が含まれており、野焼きが繰り返されてきた可能性が高いこと。
 このような黒色土の形成は縄文時代から始まっていることが、C14年代法や火山噴出物の前後関係から明らかにになっていること。これは草原を維持することで、鹿やイノシシ等の狩猟動物の狩りをしやすくするためだったと推測されているそうだ。
 続いて、弥生時代には水田稲作の導入普及。さらに、3-5世紀頃に牛馬の導入という形で人間の生業も変化する。牛馬の放牧・飼料供給源として、草原は重要であり、古代には火入れを行って草原を維持する活動を行っていたことが律令の規定や文学作品に残っている。
 江戸時代に入ると、近世城郭や城下町の大建設時代となり木材需要が急増、17世紀前半を中心に森林伐採が盛んに行われた。また、近世の新田開発と人口増大は、田畑への肥料として草原の草の需要を増大させる。結果として山野への圧力が拡大するとともに、山野の用益をめぐる紛争が多発した。江戸時代の地図類や絵画を検討すると、よほど険しい場所あるいは御林など公有林を除けばほとんど立木のない景観が広がっていたようだ。
 近代に入ると、殖産興業の推進のために、生糸の生産に必要な燃料として木材の需要が増大するなど、さらに森林への圧力がかかるようになった。この時代に入ると写真や地形図、郡村誌といった史料群が出現する。


 第3章は水田の畔などの「里草地」と生物多様性。畔なんてと思うが、全国の水田面積の5%程度、23万ヘクタールという、全部を足せば馬鹿にならない量になる。このような里草地は頻繁な草刈といった、人間の強度の介入を特徴とする。
 この里草地には、各地の半自然草原と共通の植物種、湿地性の植物、さらには稲作の導入とともに日本に入りこんできたらしい史前帰化植物といった多様な出自の植物が同居している。また、棚田のような土壌の水分や水中の栄養塩の濃度、光環境などが異なる環境が形成されるため、その点からも生物多様性に貢献している。とくに棚田の高いところに形成される貧栄養の場所に希少な植物が多く生息する。
 しかし、圃場整備と耕作放棄という農業の効率化に伴う二つの動きの中で、辺縁部の貧栄養環境に生息する植物の生存が脅かされているという。圃場整備は表土を全部はがしてしまうため、既存の生態系が破壊される。また、草刈りの頻度が上がるために、植物体が小さくても繁殖できる一年生の植物が有利になり、大きくなる必要がある多年生の植物は不利になるという。また、耕作放棄地では、だんだん背の高い植物が優越し、最終的には森林に遷移していくために、草原性の植物は生息できなくなる。
 このような生物多様性の危機に対応するための保護策の提案として、ローカル生物多様性ホットスポットへの指定、ブランド化による都市住民への応分の負担、補助金や圃場整備の工事法の改善などが提案されている。


 改めて、かつての人類社会が植物に頼っていたのだなと痛感させられる。それが、20世紀後半に石油エネルギーと電気の利用によって使用されなくなる。結果として、ここ半世紀で景観も生態系もごっそりと変わってしまったこと。化学肥料によって草肥としての草が必要なくなり、内燃機関によって動力源や輸送機械としての家畜は必要がなくなる、さらに化石燃料によって薪や木炭を供給していた雑木林も必要なくなる。こうして、経済価値がなくなった場所に拡大造林で針葉樹が植えられる。しかし、拡大造林地には森林を維持するノウハウも、それを行う人もいないので、荒廃した森林となってしまう。見事な悪循環だな。拡大造林は悪手と思っていたが、山村を中心とする経済崩壊に対する対処として他に手がなかったのかもなとも思うようになってきた。
 このテーマに関連する歴史学からの研究としては、水本邦彦『草山の語る近世』asin:4634545209が挙げられる。あと、本書と似たようなテーマに太田猛彦『森林飽和』asin:414091193Xがあって、次に読む予定。


 以下、メモ:

 このような見方は、過去一万年の自然と人間のかかわりの全体に対する見方を、根本から問い直すことにもつながっている。たとえばアメリカ大陸の先住民も、森や草原に火を入れて生態系をつくりかえてきたことが近年わかってきた。後氷期の陸上生態系の全体を、このような自然と人間の相互作用の場として理解する必要があるのかもしれない。p.14-5

 ほほう。

 昭和の初期にも、信州では身近に草原があったようである。そのことを示す手がかりのひとつに、長野県環境保全研究所による調査結果がある。信州の各地一六市町村で年配の方々に聞き取りをおこなったものである。それによると、多くの場所での聞き取りに共通した内容として、戦前の里山には子どもたち同士で遊びに行けるような明るい開けた環境の場所が多く、キキョウやオミナエシなどが普通に咲く草原も今よりはるかに多くあったという。ウマが飼われていた地域も多かった。また、シカやイノシシ、クマ、サルのような大型獣の姿を人里近くで見ることがほとんどなかった。その一方で、田んぼや小川には今よりもはるかにたくさんの生きものがいた。これが今もその記憶を伝える方々のいる信州の伝統的な里山の姿である。p.27

 このあたり興味深いな。周辺での草肥・放牧の停止による森林への遷移が、大型の哺乳類の生息場所・隠れ場所を提供し、結果として人間と動物の緩衝地帯がなくなってしまう。それが人間に危害を加える動物を生み出すと。

 半自然草原をつくり出す人間活動としては、野火・放牧・刈り取りの三つがある。野火には、失火によるものと意図的な火入れによるものとがある。失火を別にすれば、火入れ・放牧・刈り取りの三つが意図的に半自然草原をつくり出す人間活動である。放牧や刈り取りに適した草地を維持するために火入れがおこなわれることも多い。しかし火入れは別の目的で行われることもある。オーストラリアの狩猟採集民アボリジニは、火を放つことによって狩の対象である草食獣の増える環境をつくり出してきた。アメリカ大陸でも、先住民は森や草原に火を放った。それによって植物の生育を促進し、狩猟の対象となるシカやバイソンなどが増えるよう生態系をつくりかえていたとされている。p43-4

 草原に火入れすることによって狩猟獣を増やすという方法。

 一〇世紀初頭の『延喜式』には、各地の牧(放牧地)の存在が示されている。土壌学の渡邊眞紀子は、これらの牧の分布が黒色土の分布に重なることを示した。このうち「勅旨牧」(朝廷に貢馬するための官牧)は信濃国に一六、上野国に九、武蔵国に四、甲斐国に三の計三十二カ所があった。主に軍用の牛馬を飼った「諸国牧」は関東と九州に多かった。
 信濃国勅旨牧のあったとされる場所を見ると、ほとんどが扇状地・河川敷か火山麓に位置している。自然の撹乱で草甸的な環境が生じやすかったと考えられる場所である。また黒色土とも分布が重なっている場合が多い。たとえば浅間山系の山麓には、長倉牧・塩野牧・新治牧があった。軽井沢の長倉をはじめとして、これらは現在の地名にも残っている。五世紀の馬の殉葬の発見例はいずれも『延喜式』の牧の近くにあるという。勅旨牧東山道などの街道沿いに置かれていた。p.84-5

 草原の利用としての牧。

 その後も里山の姿は時代とともに変わった。江戸時代の近畿地方では農村部にも市場経済の影響が深く浸透していた。そのため里山で育成され利用される樹種の選択も、市場の動向と深くむすびついていたという。信州でも、江戸時代にはカイコの餌となるクワの木が里山に植えられることが多くなり、近代製糸業の発展期にはクワ畑が大きく広がった。黒色土の広がる土地にカラマツの植林が増えたのは、戦後、草地がほとんどりようされなくなったあとのことである。p.92-3

 時代による里山利用の変遷。

 「生物文化多様性」ということばがある。生物多様性保全は世界的な課題になっている。生物多様性をかたちづくる生態系や遺伝子などの要素は、歴史的に地球上のさまざまな文化と深くかかわってきた。そこには地域の生物資源とそれをうまく利用する伝統知識とのむすびつきがある。生物多様性の喪失は、このような伝統文化の喪失でもある。これらをどのように守り、未来の世代に伝えていくかが問われている。このように、文化の側からも生物多様性について考えることが必要である。これは重要なことである。この章で『万葉集』などの文学にもふれてきたのはそのためである。p.93-4

 生物文化多様性。人間と生物の相互作用。

 現在、さまざまなメディアでとりあげられている里山の定義は、明確なものがひとつ決まっているわけではなく、対象となる範囲はそれぞれ微妙に異なっている。ただ、最近使われている里山という用語には、強調されることは少ないものの、森林以外の土地利用である草原がふくまれている場合が多いことに注意しなくてはいけない。草原が表だって取り上げられることが少ない理由としては、「山」というとどうしても「森林」を想起してしまう日本人の森林観があるからかもしれない。また、里山が一般のひとにも認識され始めた一九七〇―八〇年代には、高度成長期以降に放棄された薪炭林の再生への取り組みが活発におこなわれたが、その頃にはすでに集落や農地の周囲に広がっていた草地は植林地や雑木林に姿を変えていたことが、影響しているかもしれない。なお、里山に関する文献ごとのイメージのちがいについては、図をつかってわかりやすく解説された報告がいろいろとあるので、それらの報告のなかから自分のイメージに近い「里山」の姿を探してみてはどうだろうか。p.122-3

 確かに「里山」に草原のイメージはないなあ… たった半世紀で忘れ去られることの多いこと。

 それでは次に、草原植生下で生成される黒色土の年代を、放射性炭素年代法(C14年代法)や黒色土中に挟まれているテフラの年代を用いて調べた結果を見てみよう。場所によっては三万年前を超えるような古い年代を示すものもあるが、縄文時代の開始年代とされる約一万五〇〇〇年前以降に形成を開始した黒色土がほとんどである。また、黒色土の生成期間は、短期間ではなく、数千年間にもわたっていることが多い。また、近接した地域において黒色土が形成を開始した年代を比較してみると、標高・傾斜などの地形、集落(遺跡)からの距離などといった、あたかもその土地をひとびとが利用する際の難易度に依存しているかのように、利用しにくい場所ほど黒色土の形成開始年代がおそく、黒色土が形成されないこともある。p.126-7

 まあ、人間の利用が関わっているなら当然の結果だわな。

 一方、京都や鎌倉などの都市部で飼育されていた牛馬の飼料は、都市周辺の地域から供給されていたようである。京都では、河川沿いの牧や川辺の湿地帯に生育していた草を淀川、宇治川の水運を利用してもちこむこともおこなわれていた。このように、牛馬の飼育は放牧場や馬場だけではなく、武士や公家が所有する牛馬の飼料用の草の採取地など、都市近郊地域に草原を成立させる要因のひとつとなっていたようである。p.138-9

 そう言えば、桜井英治の『贈与の歴史学』では、室町時代の話だけど牛や馬を贈られると、飼料代がかかって迷惑だったってはなしがあるな。草を入手するのも大変だったのだろうな。

 戦国時代末期から江戸時代の初期にかけて、江戸をはじめとして各地の都市で城郭の建造や城下町の建設、整備がすすめられた。さらには、一六〇六(慶長一一)年頃に江戸城の造営が始まり、明暦の大火(一六五七年)後には江戸の復興対策がおこなわれた。こうした建築、土木工事の増加によって大量の木材が必要となり、日本各地の森林で大規模な伐採がおこなわれた。尾張藩の用材を供出していた木曽地域では、木曽ヒノキの伐採量がピークをむかえた一六三〇―四〇年頃には、年間の伐採量は三〇万立方メートルを超えていた。青森県南西部と秋田県北西部にまたがる白神山地は、純度の高い原生的なブナ林を主体とする独自の生態系が高く評価され、一九九三年に世界自然遺産に登録された。しかし、弘前藩によるスギ・ヒバ・ヒノキの乱伐がおこなわれる以前の一七世紀前半には針葉樹の群生を主としており、近世の乱伐の結果として現在のようなブナ林が広がったと考えられている。また、江戸幕府の御用材に供出する目的で奥山においても短期間のうちに広範囲の森林が乱伐された地域もあったようである。p.140

 ほへー

 当時、松本藩(長野県)でおこなわれていた草肥の必要量は水田一反あたり一五―三五駄、畑一反あたり一五駄程度、長野県伊那谷では三〇駄程度であった。耕地一反(約一〇a)あたりに必要な草肥の量を二〇駄とすると、一駄(二六―三〇貫=一〇〇―一一〇kg)の採草に必要な山野の面積は五―六畝(一〇畝=一反)とされることから、面積一反の耕地に草肥を投入するには一〇―一二反の山野面積が必要であると計算される。一方、農家一戸あたりの薪炭消費量は年間二〇―三〇駄とされていることから、薪炭採取のための灌木林(柴山)もある程度の面積が必要とされた。また、江戸時代の村落には農耕用、荷役用、伝馬用の牛馬も飼育されており、伊那谷では馬一頭に必要な採草地面積は二町(約二ha)程度と見積もられている。さらには、屋根をふくためのカヤ場も設けられていた場所もあるだろう。以上のように、江戸時代の農村で暮らすには、広大な面積の草原的環境が必要であったのである。p.143-4

 いや、本当に何倍も広い面積が必要だったのだろうな。

 明治政府は全国を対象にした官撰地誌である『皇国地誌』の編集を一八七五(明治八)年に始めた。村、郡ごとにそれぞれの地誌を調査させ、その結果を各府県が取りまとめて提出することが通達されたため、皇国地誌は郡村誌ともよばれている。中央に提出された郡村誌は東京帝国大学附属図書館に保管されていたが、関東大震災の際にほとんどが焼失してしまった。ただし、各地に残されていた控えは後に『武蔵国郡誌』『東京府誌』『日向地誌』などとして刊行され、明治初期の各地の様子を把握することができる。明治初期の山の景観を推定する際には、一八七五(明治八)年六月五日太政官通達第九七号に示された調査項目である山、森林、原野、牧場、名勝などに記載された内容が参考となる。調査項目として原野があげられていることは、明治時代初頭には原野(草地)が土地利用区分のひとつとして重要な位置を占めていたことを示している。これらの文書に記載された植生に関する内容を確認した研究によると、奥山にあたるような場所や江戸時代に藩有林となっていた場所を除くと、草原もしくは灌木が疎らに生えるような植生が広範囲に広がっていたことがわかる。p.155-6

 郡村誌から当時の植生を確認できると。メモメモ。

 また、明治時代に原野が広がった理由のひとつとして、明治政府が推進した殖産興業政策もあげられる。この政策により製糸業、製鉄業、鉱山開発などの振興がすすめられ、動力源となる燃料の確保が求められた。一九〇四―一九〇五(明治三七―三八)年の日露戦争以降に石炭が燃料の主流となるまで燃料の主体となっていたのは薪炭で、明治初期には九〇%ほどを占めていた。一八八四(明治一七)年におこなわれた各府県の山林の実情調査によると、当時の「山林衰退資源欠乏」にいたった要因として、旧藩林制の弛緩、鉱工業・陶業の発達、材価(薪炭材)の高騰による濫伐、土木・建築用材の需要増大など、殖産興業政策を反映したものが多くあげられている。明治期の最大の輸出品目であった生糸の生産の多くを担っていた長野県、群馬県山梨県の三県は、民林衰退の要因として製糸・養蚕に関連した薪炭、建築用材の需要急増、桑園化をあげており、日本各地の製糸業・養蚕のさかんな地域では似たような状況になっていたと考えられる。製糸業がさかんだった長野県諏訪地域の民有林の状況を当時の統計資料から見てみると、山林に区分された場所においても伐採直後と思われる無立木地が一五%ほどを占めていたことがわかる。これに、草肥用の草の採取地であった原野の面積を加えると、諏訪地域の民有林面積の七割以上が草原的な環境になっていた。また、立木地に生育していた樹種は、針葉樹ではアカマツ、カラマツ、広葉樹ではナラ類が多いことから、薪炭用の材を得るための育林がおこなわれていたようである。しかし、薪炭材の不足が常態化していたため、官有林・御料林の払下げによってどうにかまかなっており、植林事業がすすめられていたにもかかわらず、民有林の荒廃した状況は改善されなかった。一九〇〇(明治三三)年頃には諏訪地域だけで薪炭材をまかなうことができなくなり、周辺の郡だけではなく、他府県から移入されるようになっていたようである。その後、篠ノ井線、中央線といった鉄道の敷設により高騰した薪炭よりも安価に石炭が得られるようになり、石炭を利用する機械の施設整備がすすみ、日露戦争以降は石炭、電力へのエネルギーへの転換がすすんだ。p.157-8

 明治前半のエネルギー危機。