日下雅義『平野が語る日本史』

平野が語る日本史 (角川ソフィア文庫)

平野が語る日本史 (角川ソフィア文庫)

 表層地質や微地形と史料や考古学をあわせて、ここ数千年ほどのスパンでの平野の消長を明らかにしている。こうしてみると、日本列島というのは、本当に激しく変動している場所なんだなあ。山は火山、平野は海進海退でごっそり変わる。現在の東大阪市あたりは、古代には大きな潟湖があり、和歌山の紀ノ川は南に流れて和歌浦に南流していた。紀ノ川の流路変動とか、大災害だったんじゃなかろうか…
 一度読んで、改めて地理院地図を見ながら読み直したけど、本書は地形図を座右においてじゃないと、ダメだな。ちゃんと地形図も収録されているけど。


 第一章は、古代における平野の地形を指す語彙の検討。いろいろと細かく呼び分けていたのが印象深い。郊原、平原、高台、野辺といった語彙が使い分けられていた。また、現在よく使われる平野は近世以降の語彙で、近代の地誌で一般化したなど。


 第二章は、日本の平野が、どのように構成されているか、徳島県の勝浦川を事例に紹介する。扇状地、自然堤防、後背湿地、ポイントバー、砂州、ラグーンなど。しかし、この勝浦川、不思議な川だなあ。小松島市のほうに河口があってしかるべき川だけど、そこから北流して、徳島市で海に流れている。元は芝山を挟んで分流していたのが、堆積作用か、河道の固定で現在の形になったのだろうか。
 ここの地形図と土地条件図だけで、ずっと見ていられるわ。


 第三章は「平野は変わる」と題して、地震による地殻変動、大規模な土砂災害による大きな変化、徐々に潟湖などが埋められていく変化などを紹介。


 第四章は、「段丘と古代の開発」ということで、古代の段丘への灌漑工事である裂田溝(福岡県那珂川市)と大阪平野南部の針魚大溝による段丘面への灌漑の復元、そして、段丘の境目に建設された百舌鳥古墳群古市古墳群地震による変動の紹介。地形面を跨ぐ構造物は、やっぱり、地震被害を受けやすいのだな。
 針魚大溝は結局、どこを流れていたのか、地図上でさっぱり分からなかった。裂田溝は、今もわりとよく残ってるけど。というか、裂田溝のある谷、断層でもあったんだろうなあ。そして、水路を作ると、そこの水流が浸食するというのも印象的。


 第五章は、「畿内の盆地群と都京の立地」ということで、関西地方に複数立地する盆地と、その中を転々とした古代都城のお話。平安京が長く続いたのは、それ以上移転する場所がないどん詰まりだったからというのは、身も蓋もない指摘だなあw
 あとは、一番地形が安定していたとか、それ以上、新たな都城を作るインセンティブがなかったというのもありそうだけど。
 長岡京恭仁京は、さすがに大河に近すぎた感が。難波京は岬の上は補給上あれだったのかね。


 第六章は、「大井川扇状地の洪水と住民の知恵」。海まで続く扇状地とその中を暴れまくった痕跡である旧河道。
 そして、頻繁に起きる洪水から、自分の家を守るために水流を切るような方向で、上流側に木を植えた「三角屋敷」が紹介される。地理院地図の1960年代の航空写真を見ると、本当にたくさんあって印象深い。現在でも、比較的住宅の密度が薄い藤枝市青南町なんかでは、道路と敷地の方向が違って、上流側に木が植えられている三角屋敷らしき家が見られる。逆に本書で地図が紹介されている栃山川近辺、特に西側は区画整理されて、かつての屋敷地の姿がよくわからなくなっているようだ。
 あと、源助とか、道悦とか、善左衛門という地名は、新田開発した人の名前なのかな。


 藤枝市の田中城跡も、興味深い。いきなり丸い町割りがあって、地理院地図だとすごく目立つ。



 第七章「紀ノ川氾濫原の河道変遷」。
 氷河期には深い谷があった場所が、その後の海水準上昇でおぼれ谷に。さらに、上流からの土砂の供給で埋められて、徐々に土地が形成されている。縄文時代あたりには、現在の海岸線である二里ヶ浜に砂州が形成され、その内部に潟湖が形成された。中世に至るまで、紀ノ川の河口は、現在の和歌浦であった。これが、今の水軒川あたり、そして、現在の河口へと、砂州が浸食されて、河道が変遷していく。1000年くらいで、ほんとに大きく変わるのだなあ。
 現在でも、砂州は微高地になっていて、ここいらの古くからの集落を探検したい。


 紀ノ川の中州の小豆島、要塞みたいな堤防で目立つけど、ここ、元は北と繋がっていたのを、治水で水路通したのかな。どういう経緯で、こういう場所ができたのか、気になる。



 第八章は「筑後川三角州の水路網と舟運」。
 筑後川流域は、弥生時代には、かなり海退と土地の形成が進んでいた。しかし、その後、土地の堆積が進まなかった。むしろ、柔らかい土が圧縮され、地盤沈下を起こして、弥生時代の地表面は、現在は海面下になってしまっている。また、平野の北縁では、吉野ヶ里遺跡のように、段丘面に集落が立地していた。
 これらの都市的集落では、有明海の大きな干満差を利用して、内陸舟運が行われていた。満潮を利用して、一気に遡上限界まで上がることで、かなり内陸まで移動できた。
 つーか、ここいらの位置関係に疎かったけど、吉野ヶ里遺跡って、ずいぶん東にあるんだな。筑後川河口より東なのか。
 地名がここらが古くから利用されてきたのを示しているなあ。「里」がつく土地は条里制の痕跡だろうし、上分・下分とか、西分・東分なんてついている土地は中世の荘園関係だろうし。
 クリークが複雑に入り組んだ集落があって、興味深い。こういう、水郷景観、他にないかも。事実上、ほとんどの集落が、濠に覆われているという。中世の城址が、公園化されているところも。
横竹クリーク公園



直鳥クリーク公園



 第九章はラグーン。新潟県阿賀野川河口周辺や九十九里浜のように、平行した砂丘が形成され、その間に細長い潟湖が形成されるパターンと、内湾が砂嘴で閉じられてまとまった湖水が形成されるパターンの二種類が存在する。ほとんどのラグーンは、その後、上流から流されてくる土砂による埋積や人間の排水によって、姿を消してしまっている。大阪平野の東部や和歌山の紀ノ川河口は、そういう跡形もなくなったタイプのラグーンか。日本海側には、丹念に見ると、ラグーンの跡の潟湖やそれらしき地形が残る。島根から鳥取にかけて、福島平野から石川県の羽咋市にかけて、新潟平野、庄内平野八郎潟、青森の十三湖など。
 本書では言及されていないけど、宮崎平野下北半島の付け根、北海道なんかは、ラグーンがいっぱいあるな。福岡県の日本海側も、かつてはラグーンだったとおぼしき地形が多い。
 そして、これらの潟湖は、波が穏やかな場所として、古代から港として使われてきた。今は完全になくなっているが鳥取県米子市淀江津からは櫂が、鳥取市の湖山池近くからは縄文時代の丸木舟が出土しているように、漁労や交易の場であった。また、石川県の日本海側、特に羽咋市の邑知潟の潮口近辺に渤海からの使節を収容する能登客院が設置されたのではないかと指摘する。


 とにかく、地図を見るのが止まらなくなる。地理院地図の土地条件図と色別標高図を見比べはじめると、時間泥棒。