畑村洋太郎『未曾有と想定外:東日本大震災に学ぶ』

 「失敗学」の提唱者が、東日本大震災直後、原発事故調査委員会に加わって守秘義務に縛られる前に考えをまとめた本。前半が津波被害について、後半が原発事故について。


 最初近くの「忘却」のスケールの話が興味深い。というか、ツイッターで見かけて気になったから借りてきた。
 確かに熊本地震から5年経つと、地震前提という感じの行動はしなくなるなあ。まあ、むしろコロナに危機管理系の注意力を全部奪われている感じだけど。組織では30年、社会では300年、そして1200年たつと存在そのものを忘れ去られる。確かになあ。



 ハードウェアで災害を真っ向から押さえ込む思想の問題点。堤防などの防災施設の設計範囲内ならガッツリ防いでしまえるが、それ以上の災害が来るとむしろ被害を拡大させてしまう側面がある。田老の大堤防は、そのドクトリンの変化が最初の堤防と新堤防に現れている。最初の市街地を囲むように作られた堤防は、むしろ時間稼ぎの側面が強い設計であった。また、市街からそらして、低地に誘導するようになっていた。しかし、その後つけたされた堤防は、真っ向から津波を押さえ込み、内陸への侵入そのものを阻む思想で作られ、東日本大震災の巨大津波のエネルギーを受けて破壊されてしまった。
 結局、ハードでの対策は、その施設が防げる以上の災害が起きたときに、どのように多段階で被災を軽減するかも考えないといけない。
 「リスク・ホメオスタシス理論」、直感的にはあるあるな感じだよなあ。


 かといって、海沿いに住むなと言うのも、人間の性質からして無理、と。生活の場が海沿いにあったら、そりゃ、住む場所も接近していくよなあ。東日本大震災レベルの津波は、100年に一回もないレベルなわけで。
 一方で、三陸の人々は、津波の脅威をきちんと認識して逃げている。むしろ、仙台平野などの平野部のほうが、津波被害を想定していなくて、犠牲者が増えた。実際、仙台空港周りとか、あのあたりにあんな津波がガバッと上がるとかなあ。三陸は災害史をすこしかじってれば、危険地帯とわかるけど。
 あとは、消防団員、鉄道乗務員、公務員、介護職員などが職業倫理から逃げ遅れて死亡している問題、そして、肉親を見捨てられないという「情」によって命を失う問題。「とも連れ」で死なせるような事が無いような対策も必要、と。


 後半は、原発事故について。著者は比較的好意的に、マニュアルの外に目を向けなかった故の惨事とまとめているけど、いろいろと出てくる情報を見ると、東京電力は意図的に対策をしないといけない範囲を狭めようとしていたわけで、擁護するところがないよなあ。経営優先で安全をおろそかにしたという点では、JR西日本と一緒なわけだが。


 非常用復水器が活用できなかった問題から、技術を輸入した際に、電源が完全に喪失しても冷却を維持できるシステムという「安全思想」を輸入できなかったことを指摘。あるいは、2005年に閉鎖された多度津工学試験所で地震の震動が原発施設に与える影響を研究してきたが、「耐震試験をやりつくした」と研究をやめた傲慢。
 本質安全性の指摘も興味深い。実際、制御しなくても暴走しない原発システムというのは、理想ではあるな。


 本書では、基本的には、日本の原発では、「周辺事故」ないし「辺縁事故」による被害が多いと指摘しているけど、臨界事故なんかも起こして、しかも、事故隠しまでやってるんだから怪しいものがある。正直、東電に原発運用は任せられないと思ってる。
 同時に、原発建屋だけでなく、施設全体が一様に堅牢でなくては、思わぬところでトラブルが発生するというのも重要なことだよな。敷地全体の一様な安全基準とか、無理だろう。

 今回の津波災害で「未曾有」といえるのは、第2章で述べた原発事故もさることながら、油の流出や建造物、自動車、船の破壊による有害物質の流出などによって、被災現場の後始末が非常に困難を極めていることでしょう。これは寺田寅彦が生きていた時代にはまだなかった新しい災害の形です。p.154

 そういえば、インド洋津波でも、同じような有害物質の流出問題があっただろうけど。ここいらの問題について、簡単にまとまったものはないのだろうか。
 あとは、仙台市なんかの下水処理施設の停止にともなう、環境汚染なんかも気になるところだな。